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自己監視する心(どこで誰があなたのことを見ているかわからないからちゃんとしなさい)

パノプティコンとは、監視者が全ての囚人を見ることができるが、囚人は監視者を見ることができないように設計された刑務所のことです。この概念は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーによって有名になりました。彼は、パノプティコンは近代社会の権力の象徴であり、人々は常に監視されているという感覚によって自己規制するようになると主張しました。

こんにちは。Recovery of humanityのマインドアナリスト美月詞葉です。

今日はパノプティコンについて解説してみようと思います。

パノプティコンとは、上記に記したように、囚人を監視するために建てられたシステムです。


囚人がいれられる独房が並んだドーナツ状の建物があって、その真ん中の穴の所に塔が絶っている。塔には監視室があり、そこからぐるりと見渡す様に円周すべての独房を監視できるようになっている。これがパノプティコン「一望監視」が出来る監獄です。

千葉雅也 現代思想入門より

わたしたち人間というのは、ある種このパノプティコンというシステムを自分で作って、自分を自己監視している生き物であるといえるのかもしれません。

何かをしようとするとき、これはいいとか、これはいけないとか、そこには常に他者の視線がある。誰かに常にみられているという強い意識がある。この意識によって、私たちは自分で自分をある程度制御することが出来ている。(この自己制御がいいものなのか?はたまた悪いものなのか?は議論の余地があると思うが・・・)

他者によって私たちはいつもこのように何らかの監視を受けている。だから、その他者の監視をなかなか逃れることが出来ない。他者が見ているから、その他者にどのような評価をされるかわからない。だから変なことはしないでおこう。ちゃんとしていなければ何か悪いことが起こるかもしれない。こうした不安や恐怖心が私たちを自然と自己管理をするように導く。

つまり、わたしたちはこのパノプティコンの中にとらわれ、看守に常に監視されている訳ではないが、この独房に入った囚人とほぼほぼ同じ心理を抱えているという事になる。

常に私たちは自分以外の他者によって監視されている。こうした不安や恐怖が、常にわたしたちの自由な行動を制限する。

「誰がいつどこで自分を見ているかわからないんだから、常にちゃんとしていなくちゃだめよ。」と私は母親にいつも言われて育ってきました。

これはまさにしつけの一環であって、悪い言い方をすれば洗脳の1つでもあるといえます。

親は私に他者の目というものを強く意識させるように働きました。いつどこで誰が自分の事を見ているかわからない。だから、いつでもちゃんとしていなければならない。もし、ちゃんとしていなければ、その他者に何を思われるかわからない。これは幼い私からすると相当な恐怖です。

この時点で私はパノプティコンの中にいる囚人と同じ心理状態にあるという事になります。

常に誰かが私を見ているかもしれないという強烈な自己意識を親によって植え付けられたので、わたしはいまだに自由にふるまうことが上手くできません。

誰かがいつも見ているという意識が、なかなか私の意識から消えてくれないからです。だから、ダラダラとするのはいけないし、何かを適当にすることもできない。常に意識はピーンと張りつめたままで何をするにも、適度に力を抜いてリラックスすることが出来ない。

これはまさに、塔の中心部で看守がいつ自分を見ているかわからないといった究極な緊張状態を抱く囚人と同じ心理です。

誰もがそうだとは言いませんが、多くの人たちがこのパノプティコンの中に囚われ苦しんでいると思います。

常に人の目が気になって自由に動くことが出来ない。人にどう見られるかわからない。だから、どうしても自分の殻を破ることが出来ない。今のキャラで私はずっと生きてきたから、このキャラを破って全く別のキャラを生きることが出来ない。こうした現代の若者が抱える問題の多くはこのパノプティコンそのものを象徴しているように思います。

常に誰かに見られている。監視されているかもしれないと思い生きることはとても大変なことです。人目が気になりはじめると自分がその他者の目にがんじがらめにされて上手く動くことが出来なくなっていきます。

今この現代においては、SNSが発達して常にSNSパトロールなんて言葉があるくらい、どこかの誰かが常にどこかの誰かを監視している世界です。

誰も自分を見ていない、誰ともつながってはいない、そんな孤独な世界だと一見するとそう見えますが、意外にそうでもないのかもしれません。私たちは互いに互いを監視しあい、そしてその他人の持つ自由を制限して生きているのかもしれません。それだけ、私たちは今他者に対して厳しくなっている気がします。

ちょっと話題は古いかもしれませんが、マスク警察なんてのもある種この極みなのかもしれません。彼らは自分たちのことを看守だと思い込んでしまっている。そしてその看守である自分たちは、マスク反対の人間たちを監視し、そして彼らをある種コントロールしなければいけないといった強い使命感を持っている。これはとても恐ろしいことです。

誰かに見られているかもしれない。だからちゃんとしなければいけないという言葉はある種、度を越えるとこの言葉は完全に悪魔化するものと私は思っています。そしてこの悪魔化したこの言葉は、一生その人間の心を苦しめ続ける。

だからこそ、こうした妙な自己意識を幼い子の心に植え付けることは何が何でもやめて頂きたいと思う。

何処で誰があなたのことを見ているかなんてわからない。だから、いつでも自分を律してぴしっとして生きていなければならない。こんな言葉は私は子供たちに死んでもかけていい言葉ではないと思う。

私たちはもっと一つ一つの言葉が持つその意味と、その効果について学ぶべきなのではないかとつくづく思う。

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