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社会

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#人生

親に都合のいい闇教育

闇教育について考えた。 親というのは、自分の中にたまった感情を理不尽に子供にぶつける。 何でもかんでも、悪いことは子供に押しつけ、自分は何もないきれいな人間だとそう言った体裁をとる。 子供の言うことは、いつもおかしなことで、大抵の大人には通用しない。 「なにおかしなことを言っているの?そんな訳ないじゃない」 子供が必死になって現状を訴えたとしても、それは親の都合で全て打ち消される。 これらの行為を親は皆、教育だ!という都合のよい言葉の裏に隠す。 いい子にしていな

破綻と成長(破綻を認められない井の中の蛙)

日本はもうすでに破綻している。もっと言えば、世界もまた破綻している。 けれど、私たち人間というのは面白いもので、その破綻を絶対に認めようとしません。 完全に破綻している世界がここにはある。でも、その破綻を認める事が出来ないから、私たちは、その破綻から目を背ける様に、幻想にしがみつく。科学技術というものにしがみつく。 この世界は、もっと早く、もっと便利に、もっとスマートにを今全面に押し出している。 けれど、ここで一歩立ち止まって考えてみてほしい。 どうしてもっと早く、

内的衝動と創造

私たちは自分を表現したいから文字を書く。そして絵を描く、何らかの造形物を作る。でも、今これがAIにとって代わられようとしている。 表現したいから作るのであり、この表現するという部分をなんだか切り落とされてしまっている気がしてならない。 作りたいから、作るのであって、何かが欲しいから作るのではない気がする。作らずにはいられない、書かずにはいられない、何か創作せずにはいられない。こうした強い衝動が私たちの中にはあり、それを私たちは外の世界に向かって表現する。 これは言って

環境と呼応する事を止めた私たちが向かう破滅への道

ここへきて、外の環境は大きく変わった。でも、私たちは何も変わらない。人間だけに限らず、この地球上にいる生物というものは、いつも外界の変化と共に生き延びてきた。 外の環境が変化するにしたがって、これまで生き延びてきた生物は、自らもその様態を変化させてきた。そうする事によって、彼らはその命を何とか繋いできた。でも、外界の変化に伴って、自分を変化させる事が出来なかった生物は皆その姿を消した。 今私たちを包むこの世界は大きく様変わりしている。外の環境はものすごいスピードで変化して

社会が作る恐怖のネバーランド

人の流れを止めるなんて事は絶対に無理。だって、皆この社会に多くのストレスを抱えているから。そのストレスが解消されない限り、私たちの動き、行動を止める事なんて出来ない。外国の様に強制力をかける意外、私たちの動きを止める事なんて出来ない。 前にも書いたけど、私たちは皆それぞれにストレスを抱えている。そのストレスを解消する為に、あちこちに出かけて行ったり、何かをしたりする。 もし、この個々が持つストレスを大幅に減らす事が出来れば、私たちはこんなに必死になってまで、危険な外に出て

スクラップ&ビルド(私たちは創造し、そして破壊する生き物)。

人間というのは、不思議なもので一時行動を変えたとしても、そこに絶えず意識を向け、力をかけ続けなければ、又すぐに元の状態に戻ってしまう。伸ばしたゴムが、手を離した瞬間に元に戻るのと状況は全く同じ。 何かを言われて、その時は直したとしても、それは又すぐに元に戻る。 こうした人間ってものを観察していると、自分に絶えず力をかけ続け、その行動を意識し続けるという事が、いかに難しい事であるのか?を思い知らされる。 何でもそうだが、少し慣れてくると人間ってのは、すぐに力を抜く。そうす

牛と同じ運命をたどる私たち(同じものを与えられ、同じものを享受する人間の末路)。

人間によって、支配され、管理されている牛は、早々に子供を産まされて、そして、それによって出始めた乳を出なくなるまで、人間に搾取される。その乳は、子供の為ではなく、人間の為に絞り取られる。 もうこれ以上ないという所まで、乳を搾り取られた後は、もうその母親牛には、何の用もなくなる。そうなると、人間は、その母親の牛を食用にするために殺す。 こうした悲劇を何も知らずに、私たちは、毎日毎日、肉だ!肉だ!といって肉を食べている訳だけれど、別にそれがいけないという訳ではないけれど、こう

有限なる世界のその先に広がるは、永遠で無限なる世界。その世界の中にこそ生きる事の本質がある。

右を見ても、左を見ても、皆自分ってものを作るのに必死だ。 何とかして、私というものを作ろうと必死だ。私を何とかして形作らないと、どうにかなってしまうかのように、皆必死で、私というものを形成する。 人間というのは、私という全体から独立したものが欲しくて仕方がないらしい。全体の中から、抜け出て、独自の存在になりたい。だから、皆必死になって毎日毎日私を形成する事に命を懸けている。 皆、この全体という世界の中から出て、私という独自性を獲得した気になっているけれど、それは言ってみ

皆がしているから自分も!の危うさ(私たちは全体に飲み込まれている)

何の為に、~するのか?どうして自分は~をしようと思うのか?それを私たちは、意外に何も考えずに、その場の空気というものに流されて、ただ何となく周りがしていいるからといった理由でする。 皆がしているからとか、世間一般の考えがそうだからとか、そう言った流れだから、ただそれに従うまでで、私たちは、特に何も考える必要がないと思ったらそれは大きな間違いだ。 自分で何も考えずに、ただ自分の周りにある環境に流されて生きて行ってしまえば、その中で自分が光るという事はまずない。 ただ何とな

子供が聞きたいのは、一般的な話ではなく、あなた個人がこの世界との間に紡ぎだしたストーリー。

私たちは、毎日なるべく考える事から逃げている。考えたくないから、ただ反応するという事に逃げている。生きていくには、何かを深くまで思案するのではなく、ただ目の前の現象に対して反応しているほうが楽だからだ。 私たちは、大人になるにつれ、賢くなるのか、馬鹿になるのか?それは定かではないが、何でもかんでも合理的に考える様になっていく。不合理な事は排除して、何でもかんでも合理的に考えたり、行動しようとする。その方が、スマートな生き方だと何故か、不思議と思う様になるのだ。 子供という

何故、私たちは働くのか?そしてお金とは何なのか?

どうして私たちは、毎日時間を拘束され、自由を奪われ、必死になって働いているのか?そもそもどうして私たちはこんなにもなって必死にお金を稼がなければいけないのか?それについて考えてみた。 私たち人間というのは、働く事でお金を得て、そのお金で幸福感というものを買っている。 何故、働くのか?何故、苦しんでまで働き、お金を稼ぐ必要があるのか?それは幸福感ってやつを買う為。 私たち人間というのは、自分で幸福感を作り出すのではなく、この幸福感という奴をお金で買っている。お金で幸福感を

鏡の中の美しい私

毎日毎日、私たちは鏡に映る自分の顔を見てうっとりする。そしてその鏡の中にいる自分を誰かに見せたくて見せたくて仕方がなくなる。 鏡の中に映る自分。それはとんでもなく美しい。だから、その自分を私たちは自分だけのものにしておいてはいけないという思いに駆られる。この鏡に映る美、それを自分だけのものにしておくのは罪。多くの人はそう思い、その鏡に映る美しい自分を他とシェアしようとする。 他に自分の美を共有してもらう事で、自分の美というものは確かなものだという確信を私たちは得たくなるの

フィクション疲れ

私たちは一体何を信じてこれからの時代を生きて行ったらいいのだろうか? 私たちが信じている何もかもがフィクションであり、そのフィクションは常に作り変えられる。常にアップグレードされて行く。昨日まで信じていたストーリーが、今日になったら全く違ったものに書き変えられる。こういった世の中で一体私たち人間は何を信じて生きて行けばいいのだろうか? 私たち人間というのは、いつも自分の信じる事の出来るストーリーというものを常に追い求めている。そしてその自分の信じるストーリーの元に私たち人

シャープでスマートな世界が本当に人間としての幸せか?

何でもかんでも合理化して、不必要なものは、切り捨てていく。そう言った生き方は、ビジネスという観点に立てば有効かもしれない。でも、人間という観点に立った時には、こうした考え方は果たして本当に有効なのだろうか? ビジネスにおいては、いらないものは確かに潔く切り捨てていくというそう言った考えが出来なくてはいけないと思う。でも、この考え方をこの社会や、私たちの生活に組み込むとなると、それは別の話の様な気がする。 何でもかんでも、合理的に考えて、理知的に考え、判断し、そして排除して