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社会

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記事一覧

マスという名の闇

マスとは、集まり、集団、群衆、大衆、多数などを意味します。 このマスという言葉はあまりにも恐ろしい。 なぜなら、みんながいいと言っているものは、いいという押しつけを作るから。 人間ってのは、そもそも皆違う。なのに、この世界は本当におかしくて、薬一つとっても、だれかにとって有効なものは、別のだれかにも有効であるとそういう。 それってよくよく考えて見れば、おかしなことなんだけれど、それを皆気づかない。 皆にいいものなんてあるわけがない。それは薬もそうだし、いろいろな習慣

親に都合のいい闇教育

闇教育について考えた。 親というのは、自分の中にたまった感情を理不尽に子供にぶつける。 何でもかんでも、悪いことは子供に押しつけ、自分は何もないきれいな人間だとそう言った体裁をとる。 子供の言うことは、いつもおかしなことで、大抵の大人には通用しない。 「なにおかしなことを言っているの?そんな訳ないじゃない」 子供が必死になって現状を訴えたとしても、それは親の都合で全て打ち消される。 これらの行為を親は皆、教育だ!という都合のよい言葉の裏に隠す。 いい子にしていな

大衆は弱者を支配するよりも、自分を支配する強いものの方を選ぶ

ずっと読まなければいけないと思っていたアリス・ミラーの魂の殺人という本についに手をつけた。 この本のタイトルは魂の殺人。でも、その横に書いて在るサブタイトルがあまりにも恐ろしい。 サブタイトルは、ごらんの通り、親は子供に何をしたかというものだ。 このカバーの部分だけを読んでも、どこか何か心をえぐられる気がする。 一番上に引用した文だが、これはあまりにも的を得すぎているので、今回あえて引用させてもらった。 この一文はあのアドルフ・ヒトラーの言葉だ。 絶対に許すことの

破綻と成長(破綻を認められない井の中の蛙)

日本はもうすでに破綻している。もっと言えば、世界もまた破綻している。 けれど、私たち人間というのは面白いもので、その破綻を絶対に認めようとしません。 完全に破綻している世界がここにはある。でも、その破綻を認める事が出来ないから、私たちは、その破綻から目を背ける様に、幻想にしがみつく。科学技術というものにしがみつく。 この世界は、もっと早く、もっと便利に、もっとスマートにを今全面に押し出している。 けれど、ここで一歩立ち止まって考えてみてほしい。 どうしてもっと早く、

お金の価値がなくなる日(私の未来予測)2023年

こんな話を読んでくれる人がいるかわからないけれど、自分が何年か経って読むように、ここに記録しておこうと思う。 昨日も、オモウマという番組を見ていて思ったことだけれど、そもそもお金とは一体何なのか?そのお金に一体どんな価値があるのか? そんなことをオモウマを見ていえると常に考えさせられるし、お金ではないものに、特別な価値をおくひとたちが世の中で少しずつ増えてきたそんな気がする。 昨日もオモウマに出ていた社長さんは、そもそも損をするとか、得をするとかそれって一体なんだろう?

なぜ、余計なことは言ってはいけないと私たちは教育されてきたのか?

小さいころから、親にこんなことをよく言われた。 余計なことは言わなくていいんだよと。 何か親にとって都合の悪いことを、子である私が口走ってしまうからそんな私に親はいつも余計なことを言わなくていいとそう教育した。 この余計なことを言わなくてもいいという親の発言は、いつからか私の中で正直に思ったことを口に出していってもいいんだよという事を否定させる方向へと進んでいきました。 子供から大人になる過程で、親から言われた子の余計なことは言わなくてもいいんだよという教えは、私の中

どうしてわたしたちはリスクを回避しようとするのか?

私たちはなぜリスクを回避しようとするのか?その事についてBingさんに聞いてみました。そしたら次の様な答えが返ってきました。 とここで面白いので、もう一つBingさんに次の質問をぶつけてみました。 どうして人間はリスクを取ろうとしないのですか?と。 帰ってきた答えは以下の様なものでした。 このBingさんに言われた様に、リスク回避ばかりしていると、チャンスや成長の機会を逃してしまう可能性もあるというのは、大いにうなずける回答でした。 私はマネジメントの仕事で、色々な

耳の痛い話(制御不能な世界から、制御可能な世界への逃避)

この文を読んで、私の心は何か自分の中でずっとひた隠しにしてきた部分を暴露されてしまった気がして、なんだかとても自分が恥ずかしくなった。 一生懸命働いて、そして一時の気晴らしの為に遊びに出かける。その時没頭することが出来るゲームに熱中する。自分が在る程度コントロールできる楽しみに引かれる。これはあまりにも私にとっては的を得た答えでした。 わたしたちは日々、自分の携わる自分ではコントロール不可能な環境の中に放りこまれる。だから、その制御不能な世界の中では何もできない。その中で

今の自分に満足していますか?(精神的余裕を失った世界で)

精神的余裕、これを今現代に生きる私たちはあまり持っていない気がする。 本当の意味での心の安らぎ、平静、これをゆっくりと私たちは感じたことがあるだろうか?多分ない。 気づけば、いつも時間にとらわれて、ゆっくりと流れていくこの自然を眺めている暇もないくらい。 こうしたことに気づいた時、一体自分はこの世界で何をしているんだ?という意識に目覚める。 完全なる盲目的な状態から、目が覚める。この状態はまさにマトリックスさながらだ。 わたしたちの殆どは皆、何も気づかない。自分が毎

内的衝動と創造

私たちは自分を表現したいから文字を書く。そして絵を描く、何らかの造形物を作る。でも、今これがAIにとって代わられようとしている。 表現したいから作るのであり、この表現するという部分をなんだか切り落とされてしまっている気がしてならない。 作りたいから、作るのであって、何かが欲しいから作るのではない気がする。作らずにはいられない、書かずにはいられない、何か創作せずにはいられない。こうした強い衝動が私たちの中にはあり、それを私たちは外の世界に向かって表現する。 これは言って

なぜ、わたしたちはその心を硬化させてしまったのか?(現代の危機に見る若者の心理)

現代の危機現代社会において、個人はますます個体化し、社会全体が高度に合理化されています。一方で、人々は感情や直観的な思考を無視し、合理性や生産性に重点を置くようになっています。このような傾向は、個人の生き方や社会全体の運営に深刻な影響を与えています。 でもこうしたことに多くの人は気づいていません。私たちは無意識的に合理性や生産性こそが重要であるといつの間にか自分でも知らないうちにそう思うようになってしまっています。 個人の強固な個体化は、他者との間に太い境界を引くことにつ

映画カッコーの巣の上で(人間はどっちだ?)

こんにちは、Recovery of humanityの美月詞葉です。 今日は、1975年に公開された名作『カッコーの巣の上で』について紹介したいと思います。この映画は、ケン・キージーの同名の小説を原作としており、精神病院に入院した男性が、管理主義的な看護婦長と対立しながら、他の患者たちに自由をもたらそうとする物語です。ジャック・ニコルソンが主演を務め、アカデミー賞を含む数々の賞を受賞しました。 映画のあらすじは以下の通りです。 刑務所から逃れるために精神病と偽って精神病

おかれた場所で咲きたがらない私たち

わたしたちは何も知らない。だから、毎日必死になってその自分を創り出そうともがいている。 こう考えてみたことはないだろうか? 何故、こんなに必死になって”私”は、”私なるもの”を作る事に奔走しているのか?と。 必死になって私たちは毎日、自分なるもの、つまりは擬態を作っているに過ぎない。 自分の事を人間であるとそうおもっているから、その人間によせた自分を必死で作り出そうとしている。人間のこうした行為とは本当になぞだ。 人間であるのに、人間であろうと必死に努力する。人間で

意識と無意識

無意識を切り離したわたしたちわたしたちはもともと意識と無意識を持つ存在です。脳と身体、これを持つ存在です。でも、わたしたちはこの一方だけを特別なものとして崇めて、もう一方は、自分たちに都合の悪いものとして切り離しました。 私たちにとって大切なのは、意識だけであり、無意識は別にこれといって大切な部分ではないといって、わたしたちは無意識を自身から切り離してしまいました。 脳と身体も同じです。重要なのは脳だけであり、身体などたいして重要ではない、だから、身体などいらないという事