見出し画像

生まれてからの記憶メモ

生まれてから記憶にあること、物心ついた時の記憶

延岡の出北

農協の宿直所のような建物。台所と6畳の部屋、大きなトイレがあり、農協の事務所のトイレとして使われていた。
他人が家のトイレを使う。母は嫌だったと思う。トイレのついでに覗く人もいたらしい。

白黒テレビがあった。ビクター製。宮崎の祖父母の家にも同じものがあった。祖父が買ってくれたのだろう。
軽自動車もあった。これで宮崎市を往復していた。その前は汽車で。ちなみに汽車はトンネルの前には窓を閉めないといけない。

弟を乳母車に乗せ、母に手を引かれて旭化成の供給所に買い物に行った。途中に踏切があった。
供給所はすごい人出で、ごった返していた。入口にコッペパン屋がいて、数種類のバタークリームを塗って売っていた。バナナとかメロンとか好きなクリームを塗ってもらうのが楽しみだった。

ある夜、火事が近くであり、両親と外に出た。見える場所ではなかったが、空が赤かった。ベン・ケーシーというドラマが流行っていて、火事を見るかドラマを見るかという雰囲気だった。

ともよし君という仲良しがいた。近所の農家の子だったと思う。新名という床屋があり、そこの子とも友だちだったが、もしかしたら、ともよし君は床屋の子だったかもしれない。

農協の畑野さんという人がよく可愛がってくれた。ある日、スクーターの前に乗せてくれて東の方向、海辺の方に向かっていたが、途中の田んぼ道で警官に停められた。二人乗りが違反だったのだろうか。その時の畑野さんの困った顔を覚えている。

家の前には砂利の広場があり、駐車場になっていた。家を背にして右側に店舗のような倉庫のような建物、左側には農協の事務所があった。事務所と家の間に駐輪場があり、父親がバイクを洗っているのを覚えている。

事務所の前には道路があり、右に行くと旭化成、左に行くと大きな道路があった。その道路は今の10号線バイパスになったところだと思う。その大きな道路に向かっていくと、左側には畑があった。反対側、右の角にガソリンスタンドがあり、息子が二人いた。通称「油屋の息子」で、少々乱暴な奴だった。いじめっ子というより暴力的な子で、彼に叩かれたとかいう噂を聞いていた。
ある日、僕はなぜか、隣の畑から砂を入れた段ボール箱を家に向けて引きずっていた。なかなか重くて手こずっていた。その時、油屋の子が通りかかった。具体的な会話は覚えていないが、僕は絶望的になった。彼に叩かれるかいじめられるか、怖い思いをすると思った。ところが、彼は「大丈夫け?」と聞いてきたことだけ覚えている。おそらく、大丈夫と答えて、引きずっていたのだと思う。

隣の農家の敷地で蛇の卵を見つけたのを思い出す。ともよし君と一緒だったと思う。ビー玉くらいでラグビーボールのような形。少しぶよっとしていて鶏の卵のような殻という感じではなかった。割ってみると黄色いものが出てきたのを覚えている。

近所の農家のおじさんがよくしぼりたての牛乳を持ってきてくれた。しぼりたてだからか、加熱殺菌していたのか温かいもので美味しかった。

少し離れたところに、母親の叔母がいた。そこに健ちゃんという3つくらい上の息子がいて、時々、自転車で遊びに来ていた。叔母は母親にとっては延岡での唯一の血縁者で頼りにしていたようだ。叔母は当時としてはかなり派手な人で、ミニスカート、赤い口紅、少し茶髪のパーマだった。美人だったと思う。

宮崎市へ

下に弟が2人できた。すぐ下の弟、浄(きよし)とその下の正。僕と浄は宮崎市内の産婦人科で出産。里帰り出産だったのだろう。正を身ごもった後に、僕は宮崎市の祖父母のところに預けられた。4歳を過ぎたころだと思う。母は出産とその後を考えて、そうしたのだろう。正は延岡市の産院で生まれている。 僕は宮崎市内の祖父母のところで小学校にが上がるまでを過ごすことになる。

祖父母は農業を営んでいた。米、野菜を作っていた。水田は大宮小学校近くに2反くらいあったと思う。畑は家の周りに5反くらい、そのほかにも2,3反借りていたようだ。ビニールハウスもあり、当時は竹を切ってきてそれを割り、ハウスの骨組みにしていた。
覚えているのはキュウリ、トマト、ナス、白菜、高菜。一部を貸家にしていて、5DKほどの大きな平屋と3DK程度の平屋の二軒があり、両方ともに柿の木が玄関前にあった。
大きな平屋には新出光の社長(支社長?)の自宅兼事務所、小さい方は工藤さんという家族がいた。一人っ子で悦郎(よしろう)くんがいて、同じ年だった。彼とは後に一緒に幼稚園に通う親友となった。彼は自己紹介の時にえつろうと書いてよしろうと読むと言っていた。

祖父母は日中はほとんどいないので、一人遊びをしていた。祖父は田んぼの土を取ってきてバケツに水と土を入れて撹拌し、沈殿した粘土を取り出してくれた。また、ブランコも作ってくれたし、竹で5段くらいのジャングルジムを作り、同じく竹で滑り台も作ってくれた。
どこかでもらってきた時計のムーブメントは僕の宝物だった。ぜんまいが入っていて、たくさんの歯車が動いていた。

テレビは民放は昼間やっていない時間帯もあったが、教育テレビはやっていたのでよく見ていたと思う。

祖父は仕事にもよく連れて行ってくれた。軽トラに乗って、田んぼに行き、車で待つように言われ、その間に車にあるライターを押してから取り出して親指にあててやけどしたことがある。熱線が渦巻き状であったので親指にはぐるぐる巻きのやけどができた。これは相当痛かったけれど、ばれたら祖父に怒られると思い、だまっていた。それだけ祖父は怖かった。愛情をもって接してくれていたと思うが、それを言葉とか態度には出さない人だった。

祖父と宮崎神宮駅に汽車を見に行くのも好きだった。蒸気機関車は迫力があり、音もその姿も魅力的だった。帰りに駅の近くの鶏肉屋で鶏の腸を買って、きれいに洗い、金串にさして醤油につけて七輪で焼いてくれた。大好物だった。

僕の好物は、当時この鶏の腸のしょうゆ焼き、カレーライス、魚肉ハンバーグ、卵焼きだった。魚肉ハンバーグは今でも毎日食べている。祖父が時々、うなぎを採ってきた。近くの大淀川に細長いかごを沈めて、えさを入れておくとうなぎがかかる。小ぶりではあったが、七輪で焼いて食べさせてくれた。

悦郎君と幼稚園

幼稚園は至慶幼稚園という浄土真宗のお寺が経営しているところであった。フジ組で藤の花の色である薄紫の枠の名札を着けていた。自宅の隣に祖父の作った貸家があり、そこに工藤悦郎(よしろう)君が住んでいた。両親と妹のヒロコちゃんの4人家族。悦郎君は同じ年どころか、誕生日も2日違いだった。
幼稚園には彼と一緒に行き、帰っていた。
途中に宮崎大学の農学部キャンパスがあり、そこを通り抜けていたが、テニスコートでロストボールを見つけて持って帰ったり、廃棄されていたビーカーや試験管を持って帰ったりしていた。それらは格好のおもちゃになったのだ。(今思えば毒物や劇物が入っていたかもしれない)
泥水を作って沈殿させて面白がっていた。
悦郎君のお母さんは色白ですごい美人であった。幼稚園でたまに参観日かなんかで保護者が来ることがあったのだが、我が家は祖母でどうしても地味なファッション、ほかのお母さんたちはそれなりの服装で、その中でも隣の悦郎君のおかあさんは目立っていた。
弁当も祖母の弁当は当然シンプルで、ほかの子の弁当と違っていた。でも魚肉バーガーと卵焼きがあれば筆者は満足であったが。祖母もストレスを感じていたのかもしれない。
先生は新原先生。記憶ではほぼ新任だったようだ。みんながそうだったように初恋の人であったかもしれない。多くの同級生は新原先生のスカート捲りが大好きであった。
夏に青島の青少年の家で合宿があり、筆者は発熱した。喘息を持っていて、扁桃腺が腫れやすいので、よく熱が出ていた。記憶では先生の膝の上にずっと抱かれていた。苦しかったかもしれませんが、思い出すということは先生の膝の上がうれしかったのかもしれない。
悦郎君とは、その後、自分が宮崎市ではなく、延岡市の小学校に入ったため、そこで途切れてしまった。時折、彼を思い出し、どうしているんだろうと考えるくらい、仲良かった。
それから40年以上経過した時、facebookで再会することに。居酒屋で顔を合わせたが、お互い最初は顔が認識できなかった。毛量はそこそこ「認識」に影響するのだ。
彼はNPOに所属し、フィルムコミッションを担当している。映画やテレビのロケーションをコーディネイトしている。その前は映画館の運営もしていたらしい。彼はミュージシャンでもありピアノを宮崎市内のキャバレーで弾いていたとのこと。キャバレーが衰退して、東京に出てプログラマーをしていたようだ。
NPOの仕事で企画展等もプロデュースしており、生頼範義というイラストレータの原画展には感動させられた。彼は生頼範義さんのご子息のオーライタロー氏とも親交があり、良い仕事をしている。

おぼれたこと

幼少の時の思い出で、おぼれたことを思い出す。自宅から西側の畑で祖父母が農作業をしていた時、その畑の端にある用水路を覗いていたら、通りかかりの人が、「危ないよ、気を付けて」と言われたのを覚えている。
実際、そのあとに落ちるのだ。雨のせいか増水していた。通常は底が見えるくらいで、メダカやザリガニを取っていた。わずかに覚えているのは水に入り体が一回転し、空が見えた。祖父母もすぐに気づいたのだろう、引っ張り上げてくれた。祖父母がいないところだったらどうなっていたか。

瓜の実

遊び場は自宅であり、その自宅は二階建てで納屋があり、馬小屋があった。馬は小学生の頃にもいた。農作業に使うのだが、農閑期には祖父は馬車をひいて綾町からの材木運搬をやっていたようだ。
祖父はほんとうに働き者であった。馬車引きは良い現金収入だったようだし、購入した唐箕(とうみ)をリヤカーに載せて農家を回り、手間賃を取っていたと聞いている。祖父は一方でものを借りるのはいやだったようで、唐箕も購入していた。購入しても工夫して収入を得る道を考えていたようだ。
庭は畑であり、柿の木があって、上って遊ぶにはちょうど良いサイズだった。土管を使った水槽があり、金魚を飼っていた。今思えば繁殖をしていた気がする。シュロの皮を浮かべて産卵させていたいのを思い出す。
柿の木は東側にあったのだが、西側には梅の木があった。たくさんの梅の実をつける良い木だった。その下に鳥小屋があって、チャボがつがいでいた。
朝、卵を採ってくるのは筆者の仕事だった。
その南側に空き地があり、その西側には祖父の畑があった。幼稚園の時は一人遊びが悦郎君と二人だったので、空き地よりも畑で遊ぶ方が楽しかった。
畑の隅にたい肥小屋があったのだが、そこは隠れ家的に使っていて、そのそばに蔓が伸び始めていた。ある日、悦郎君と遊んでいたら、その蔓に楕円形のカラスウリのような実がなっているのに気づく。カラスウリのような、ある意味役に立たない実と思い込み、全部ちぎって、壁にぶつけた遊んでいた。これは祖父に怒られることになる。これはマクワウリの一種で食用だった。祖父は種をまいて育てていたのだ。スイカやウリを八百屋で見るとふと思い出す話だ。

千切り大根(切干大根)

祖父は冬場になると畑に千切り大根を干す棚を作り、育てた大根のカットしたものを干していた。宮崎の冬は西風が冷たく、乾燥しているので千切り大根に向いている。
時々手伝うのだが、早朝にバケツに入った大根は細くカットされていて、それを棚に薄く巻くのだ。祖父母ははしごで高いところに撒くので、自分は下の方に撒いていく。ところがこの切った大根は昨夜カットしてバケツの中で一晩経っているので、とても冷たい。手に取った瞬間衝撃が体に走るくらいだ。しかし自分の担当なので、続ける。手から湯気が立つような感じ。すぐ真っ赤になっている。途中でと思うが、ぬるま湯が用意されているので、それに手を付けるのだが、そうすると今度は干すのが嫌になる。切干大根を見ると思いだす話だ。

ビニールハウス

祖父はビニールハウスを設置していたが、そこでキュウリやトマトを作っていた。ビニールハウスは特に貼りたての時はビニールのにおいが強くする。とても懐かしいにおいで、たまに取材で農家に行ったときにビニールハウスで同じ匂いがする時がある。
池干し
祖母におんぶされて
いろりと池
延岡へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?