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クリスティ「春にして君を離れ」は怖い小説だ

アガサ・クリスティの中で一番怖い作品は、と言われたら、わたしは「春にして君を離れ」だと思う(不勉強ながら、全部を読んだわけではないのだけど)。

この作品にはポワロもミス・マープルも登場しないどころか、殺人事件すら起こらない。何せクリスティがメアリ・ウェストマコット名義で「恋愛小説」として書いたものなので、厳密にいえばミステリですらない。だが、この物語の中で一人の女性の心理上に起こることは、ある種殺人ミステリよりも恐ろしいと思うのだ。
(以下、一部ネタバレあり)



主人公は典型的なイギリスの「善良な奥様」として優しい夫・ロドニーとかわいい子供に恵まれ、幸せを全て掴んだ女・ジョーン。彼女はキャリアウーマンにはならなかったものの、自身の内助の功によって夫は弁護士として成功し、子供も自分たちの道を見つけて自立。自分のこれまでの人生に自信を持っている女性である。

物語はそんなジョーンが娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスに帰るところから始まる。旅路の途中で立ち寄った宿泊所で出会ったのは、女学生時代の友人・ブランチだ。だが、学生の頃は皆のアイドルだった友人の容貌はすっかり衰え、名家出身だったはずなのに悲惨な境遇に陥っている。「かわいそうなブランチ」「あれじゃ、あまりにも悲劇的だわ」と哀れむジョーン。

だが、別れてから思い返してみると交わした会話の節々に違和感を覚えるようになる。「哀れなはず」なブランチは、なぜかちっとも自身を恥じていなかったし、ところどころで会話がまったく噛み合っていなかったのだ。

ロンドンまでの手持ち無沙汰な長旅の中で、ブランチのことをきっかけにぼんやりとこれまでの人生を振り返ってみると、様々な疑問が次々に浮かんでくる。夫は自分が手綱を握ったおかげで成功したけれど、果たして夫はそれを望んでいたのだろうか? 子供は、過干渉な母をどのように見ていたのだろうか? そして家族は、果たしてジョーンを愛しているのだろうか?

ついに自身の生きてきた世界が幻想だったと確信するジョーン。ここに至るまでの主人公の心理描写が非常に秀逸で、何かサスペンスでも読んでいるような気分にさせられる。

現実を突きつけられたその時、彼女が取る行動とはどのようなものなのか。そして彼女の夫は実際にはどのような思いを抱いて生きてきたのか。ネタバレになるのでここには書けないが、ラスト10ページに衝撃を受けること間違いなしなのでぜひ手にとってほしい。

人はどんな人も、自分のものさしを持って世界を見ている。けれど、そのものさしが人それぞれ違うからこそ、自分の物事の見方を過信してしまうとミステリよりもおそろしい「どんでん返し」が起こるのだ。それはできれば避けたいことだけど、人だから失敗することもあるだろう。

いかに自分のものさしを信じないか、そしてしでかしてしまった時、私たちはどうすべきなのかを考えさせられる一冊だ。


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