三つ子の魂がじ〜っと体の奥底で潜伏していた件。
音の何が人の心と体を癒すのかというのは永年ぼくのテーマになっている。
音と癒やしの話の前にしばらく音楽と音楽体験の話に触れておこう。
ぼくが高校一年の時に友達の家でソニー・ロリンズの「モリタート」を聞かされてジャズに開眼したことはこの連載の第4回に書いた。
【きっかけ屋☆映画・音楽・本ときどき猫も 第20回】
ぼくはジャズに一気にのめり込んだ。
中学時代もラジオでヒット曲番組を聞いて音楽は好きだったけれど何でジャズにズブズブになるほど惹かれるんだろう。
ある時その答えが頭にひらめいた。
叔父貴だ。
ぼくは1948年に高樹町の祖母の家で生まれた。
近くの日赤産院で産まれる予定だったが、母が急に産気付いたために祖母の家でお産婆さんにとりあげられた。
3才までその家で暮らした。
高樹町というのは今で言う西麻布のあたり。
大正時代に作られた日本家屋と日本庭園を利用したレストランで宴会場、結構式場として使われた有名な羽澤ガーデンのすぐ近くだ。
羽澤ガーデンも2005年に閉鎖して今はマンションが建っている。
高樹町の家で同居していた高校生の叔父貴はジャズが好きで、サッチモやグレン・ミラー、ベニー・グッドマンを蓄音機で聴いていた。
毎日それを聴かされて育ったぼくは、いっちょまえに「タイガー・ラグ」をかけてくれなどとリクエストし、レコードに合わせて歌っていたらしい。
もちろんぼくは覚えてない。
「タイガー・ラグ」は1917年にニューオリンズの白人バンド「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」によって録音された世界初のジャズだ。
世界で最も多くカバーされた曲だけどぼくが一体だれの演奏を聴いていたのかを生前叔父貴に聞き忘れてしまった。
1931年に録音されたミルス・ブラザーズのヴァージョンを聞くと懐かしさがこみ上げてくることと、この歌い方は子どもが喜びそうなのでぼくは勝手にこれだと決めつけている。
叔父貴にとってぼくは格好のオモチャだったんだろう。
庭の梅の花が咲く季節になると庭先で「こちふかば、においおこせよ、うめのはな、あるじなしとて、はるをわするな」と菅原道真の短歌を口ずさんだのも叔父貴の差し金だ。
毎年正月に祖父の家に集まる新年会の席上で嬉しそうに大笑いしながら叔父貴はこの話をいつも語ってくれた。
その後引っ越して、ジャズとは疎遠になってしまった。
ジャズ熱に再び火がついたのは13年後、高校1年の5月5日端午の節句の日だ。
高校に入学してしばらくたってからのこと。
本の話でいつも盛り上がっていたクラスメートの滝川君に「え〜〜!磯田君はジャズ聴かないの〜〜ダメだよそれじゃ。うちにジャズを聞きにおいでよ」と誘われて大井町の彼の家にお邪魔した。
オスカー・ピーターソン、MJQ、アニタ・オデイ、エラ・フィッツジェラルド、セロニアス・モンク、マイルス・デイビス、デイブ・ブルーベック、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズなど、次から次へとレコードをとっかえひっかえして「いいだろ〜、カッコイイでしょう」と迫る滝川君。
柏餅をムシャムシャ食べながら何だかよく分からない初体験のジャズに耳を傾けていた時初めて知っている曲がかかった。
「滝川君、ぼくはこの曲を知っているよ」
"マック・ザ・ナイフ"、有名な曲だよ。
ところが耳慣れた"マック・ザ・ナイフ"のメロディーはすぐに終わり妙な演奏が続いた。
「滝川君、この人は何を演奏しているの?」
アドリブだよ、即興演奏。
「え?何?即興演奏って」
コード進行にそってその時の気分で好きなように演奏することだよ。それがジャズの面白さなんだ。
譜面を忠実に演奏することが音楽だと思っていたぼくはカルチャーショックを受けた。
その時の気分で即興で演奏が出来るなんて・・・
この続きはまた明日。
明日は幼子にジャズを教えてくれた叔父貴に恩返し・・・。
明日もお寄り頂ければ嬉しいです。
連載第一回目はこちらです。
第1回 亀は意外と速く泳ぐ町に住むことになった件。
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