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#56|「愛情たっぷりに育てられた子ども」になってほしいけど。さて、「たっぷり」かどうか決めるのは…誰?

子育ての情報は多い。

が、
自己肯定感」関連を読んでいても、
自己効力感」関連を読んでいても、
非認知能力」関連を読んでいても、

結局、同じことが書いてある気がする。


それは

『子どもにとって一番大事なのは、乳幼児期に「家庭でたっぷり愛され育てられた」経験だ』

ということ。


たっぷり愛された経験が、
自分はここに存在していいんだ!という「自己肯定感」になり、
自分はできる!やってみよう!という「自己効力感」になり、
豊かな人生を切り開く力、すなわち「非認知能力」になっていく。


ざっくり過ぎるまとめだけれど、
まあ、だいたいそんな感じでは?


つまり最も重要なのは

乳幼児期にたっぷり愛された経験を持っていること

になる。

さて疑問。
「愛された」というのは、結果論だ。
「たっぷり愛された子ども」かどうか、決めるのは誰?


そう、
「たっぷり愛された子ども」かどうか、決めるのは「子ども本人」。


親にできるのは「愛すること」だけ。親がいくら「愛情を与えた」と自負していても、子ども本人が「愛されている」と実感しなければ、結果的に「愛された子ども」にはなれない。


親は誰だって、子どもを愛している。それは普遍の事実だろう。

ただ子ども本人が「僕は・私は、たっぷり愛されている」と実感するには、愛情ベクトルが子どもと合っていることが前提になると思う。



例えば、子どもは「一緒に遊んで欲しい」と願っているのに、親は子どもにおもちゃを与えているだけだとしたら?


子どもは「話を聞いてほしい」と願っているのに、親はスマホを見ながら上の空だったとしたら?


「たっぷり愛された子ども」になるだろうか。

親も悪意があってやっているわけではない。
親なりに愛し、行動に表している。


ただ、「愛情のベクトル」が子どもと合っていないだけ。
そこが問題だ。


「忙しくて…」
「とりあえず今だけ…」
「後で必ず…」

そんな言い訳を作りながら、子どもが愛情を求めている時に応えてやらないこと。ほかでもない、私のことだ。毎日ある。


寝かしつけながら、

「あ、抱っこしてほしいって言ってたのに…」
「あ、あの時よく聞いてなかったな…」
「あ、何か言いたげだったけど、なんだったんだろう…」

そんな反省ばかりだ。


「たっぷり愛されて育った子ども」になってほしいと、心から願っている。そのためにたっぷり愛する準備もできている。

まずは子どもの「愛情ベクトル」と自分の愛し方を合わせること。ここから始めよう。

つい忘れがちなので、言葉にし記録しておきます。





一緒に楽しみながら高め合える方と沢山繋がりたいと思っています!もしよろしければ感想をコメントしていただけると、とっても嬉しいです。それだけで十分です!コメントには必ずお返事します。