#56|「愛情たっぷりに育てられた子ども」になってほしいけど。さて、「たっぷり」かどうか決めるのは…誰?
子育ての情報は多い。
が、
「自己肯定感」関連を読んでいても、
「自己効力感」関連を読んでいても、
「非認知能力」関連を読んでいても、
結局、同じことが書いてある気がする。
それは
『子どもにとって一番大事なのは、乳幼児期に「家庭でたっぷり愛され育てられた」経験だ』
ということ。
たっぷり愛された経験が、
自分はここに存在していいんだ!という「自己肯定感」になり、
自分はできる!やってみよう!という「自己効力感」になり、
豊かな人生を切り開く力、すなわち「非認知能力」になっていく。
ざっくり過ぎるまとめだけれど、
まあ、だいたいそんな感じでは?
つまり最も重要なのは
乳幼児期にたっぷり愛された経験を持っていること
になる。
*
さて疑問。
「愛された」というのは、結果論だ。
「たっぷり愛された子ども」かどうか、決めるのは誰?
そう、
「たっぷり愛された子ども」かどうか、決めるのは「子ども本人」。
親にできるのは「愛すること」だけ。親がいくら「愛情を与えた」と自負していても、子ども本人が「愛されている」と実感しなければ、結果的に「愛された子ども」にはなれない。
親は誰だって、子どもを愛している。それは普遍の事実だろう。
ただ子ども本人が「僕は・私は、たっぷり愛されている」と実感するには、愛情ベクトルが子どもと合っていることが前提になると思う。
例えば、子どもは「一緒に遊んで欲しい」と願っているのに、親は子どもにおもちゃを与えているだけだとしたら?
子どもは「話を聞いてほしい」と願っているのに、親はスマホを見ながら上の空だったとしたら?
「たっぷり愛された子ども」になるだろうか。
*
親も悪意があってやっているわけではない。
親なりに愛し、行動に表している。
ただ、「愛情のベクトル」が子どもと合っていないだけ。
そこが問題だ。
「忙しくて…」
「とりあえず今だけ…」
「後で必ず…」
そんな言い訳を作りながら、子どもが愛情を求めている時に応えてやらないこと。ほかでもない、私のことだ。毎日ある。
寝かしつけながら、
「あ、抱っこしてほしいって言ってたのに…」
「あ、あの時よく聞いてなかったな…」
「あ、何か言いたげだったけど、なんだったんだろう…」
そんな反省ばかりだ。
「たっぷり愛されて育った子ども」になってほしいと、心から願っている。そのためにたっぷり愛する準備もできている。
まずは子どもの「愛情ベクトル」と自分の愛し方を合わせること。ここから始めよう。
*
つい忘れがちなので、言葉にし記録しておきます。
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