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痛みとともに生きる選択もあるかもしれない。(ちょいしょっぱいです)

●痛みを痛みとして残しておくのもアリなのでは?
  
「なんで生きているんだろう」というくらい頑張りすぎるあなたへ   
心の自由を手に入れるライフワークコーチ
武石美有紀です。

これ、いつの写真?笑
昔の写真を見返していました。
これは、外で遊ぶのが好きだった時代。
遅くまで仕事して
どこかでドレスに着替えて遊ぶとか笑
元気にもほどがあるっ!

今はこんなお遊びよりも
楽しいものを見つけてしまったので
非常におとなしくなりました笑

若っ🤣

さてさて本題。
心理カウンセラー根本裕幸先生から学ぶ中で
自分自身でも改めて過去を振り返っています。

その中で、またひとつ気づきがありました。
以降、ちょいキツめの思考かもですので
やばそうな方はブラウザーを閉じていただければ…

私の中で、「人を大切にできなかった経験」が
”痛み”として、現在でも残っていました。

自分の望みが叶わなかったこととか
悪口を言われたりして傷つけられたこととか
そういう”自分がされた側”の経験は
今になってはあまり痛みを感じませんでした。
(当時はもちろん傷つきました!)

なぜ、された側の経験だけは
そんなに解消されているかというと
そんな過去がどうでも良いものと思えるくらい
それ以上を、自分自身で実現することが出来ているし
「私は何とか出来る」という自分への自信があるからです。

一方で、私が誰かにしてしまったことについては
もう私が関与できるところを離れてしまっています。

やってしまった後にどんなに後悔したり反省しても
私自身が何かをすることは、もう出来ません。

傷つけてしまった時の
その人の表情とか
その人から言われたこととか
想像される感情とか
そういうものが心に残っています。

当時の幼い私だったら
その選択しか出来なかった。
成長した今だからこそ
「もう少しこうすれば良かった」
そんなことを考えられる知識も経験も余裕もあるけど
当時はこれしかなかった。

”仕方なかった”

それは、頭では理解できているものの
未だにふとした瞬間に
苦い記憶を思い出すものです。

昔の写真を見返したおかげで
またふと現れたので
物思いにふけていました。

そして、色々考えた挙句、思ったのですが

もう、この痛みはリリースしようと思わず
むしろ、積極的に、この痛みとともに
生きるのもありなのではないか、と。

もしかしたら、私がしてしまったことについて
相手は何も思っていないかもしれない。
でも、もはや、そんなことではなく、
自分の幼さ故、相手を傷つけるだろう行為を
選んでしまった当時の自分がいることは確かで
そっちの方が私は嫌なんだ。

私は、もう、
当時と同じことは繰り返したくない。
相手を傷つけるという選択をしたくない。

そうだとしたら、その苦い思い出を
お守り(=戒め)として心に置いておくのも
悪くないと思いました。

相手を傷つける痛みを知ったからこそ
相手を大切にしたいと心から思える


そんな私がいることもまぎれもない事実だからです。

今は、
「相手に何かをしてあげたい」とか
「相手に喜んでほしい」とか
そんなプラスの気持ちからの行動がほとんどですが
それが原動力になれないくらい
私自身が落ちてしまうことも今後あるかもしれません。

自分が腐敗した時。

自分を犠牲にしてでも
最後まで守らなきゃいけないことがある。
いや、守り通したいことがある。
その時に、この痛みのお守りは効力を発揮しそうです。
最後の砦として。


今日は、ちょっと、しょっぱい気分なので
このへんで。

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