文字を持たなかった昭和486 困難な時代(45)負債を完済する

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりな中、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)はついに土木作業に出る決断をし地下石油備蓄基地の建設現場で働いたこと、慣れない環境での肉体労働ながら仕事を楽しんでいる様子もあったが、やがて体調を崩し現場で倒れたこと、病名は直腸がんで手術を受け、入院生活を送ったことなどを述べた。

 術後の経過は順調だったが、入院中二夫は肺炎になった。このため入院期間はさらに延びた。入院した時点で土木作業への復職は無理だと思われていたが、入院の延長でそれは決定的になった。

 この時点で社会人としてけっこうな年数を重ねていた娘の二三四(わたし)は、負債の肩代わりを申し出た。負債の残額を尋ねられたミヨ子は、「だいたい…」という枕詞のあとにけっこうまとまった額の数字を口にした。その金額がきっちり正確なものかはわからないが、二夫が給料をもらうようになってからは残債についても夫婦である程度共有するようになっていたようで、実際とそれほど差はなさそうだった。

 二三四は「これなら残りを返済できるだろう」と思われる金額をまとめて家に入れた。ハウスキュウリを始めて10数年。極端に言えば家族みんなに苦しみをもたらしたのみならず、大黒柱の健康までも奪った生活に、ようやく終止符が打たれた。

 二三四が借金の残りを肩代わりしたことを二夫はもちろん知っていたが、二三四は正面から礼を言われた記憶はない。別に礼を言ってほしいとも思わなかったし、実家の役に立ったのだからそれでよかった。

 二夫は退院し、無理のない範囲で農作業を続ける生活が始まった。ミヨ子もいっしょに農作業をする。食べる分は作れるのだから、少ないながら二人分の年金を合わせれば、現金支出にもなんとか対応できそうだった。

 余談だが、入院中の肺炎も、建築材料の塵埃が多い土木作業の環境が多少は影響していたのかもしれない。そうであれば、ハウスキュウリの負債は二夫と家族の人生に長く深く蝕んだと言えるだろう。救いは、二夫は入院中肺炎にかかったことで、まだ10代の頃に覚えて吸い続けたタバコをきっぱりやめたことだ。そのやめ方は本当に潔かった。

 のちに二夫は「肺炎にかかったときは本当に苦しかった。だからきっぱりやめた」と語った。しかし、健康を取り戻したはずなのに亡くなった原因もまた肺炎だったことには、因縁を感じてしまう。

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