文字を持たなかった昭和484 困難な時代(43)土木作業に出る⑧体の限界

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりな中、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)はついに土木作業に出る決断をし地下石油備蓄基地の建設現場で働いたこと、慣れない環境での肉体労働ながら仕事を楽しんでいる様子もあったが、コンクリートなど建築材料の粉塵が原因と思われるアレルギーに悩まされるようになったことなどを述べた。

 アレルギーで備蓄基地の現場を続けられなくなったためか、現場の作業自体が終わったためか、二夫は同じ建設会社の別の現場に配属されて働き続けた。危険を伴う備蓄基地の現場より、手取りは減ったと思われる。ただ、現場作業員の中では高齢のほうながら、経営者からの信頼は厚かったようで、新しい現場にも楽しそうに出勤していたとミヨ子は振り返る。

 しかし粉塵やアレルギーとは別の原因で、二夫の体調は徐々に悪くなっていた。土木作業に携わるようになってから何年かたったある日、二夫は現場で倒れた。救急車で運ばれた病院で受けた診断は貧血、貧血の原因は直腸からの長期にわたる出血。そして出血の原因はがんだった。貧血になるまで体調を崩していたことを周りは知らなかったし――知られないよう二夫がひた隠しにしていた――、体調の悪さはともかくがんに侵されていようなどと、本人も思ってはいなかった。

 仕事場で真っ青になって倒れるほど尋常でない無理を重ねていた状況については、いつか二夫自身のことについて綴る際に譲る。

 病院へかけつけたミヨ子と長男のカズアキには、病状や検査の結果が知らされた。もちろん手術にも同意した。そして本人には病名を伏せたまま手術が施された。人工肛門の建設はかろうじて回避できたが、かなりの長さで患部を切除した。

 体調不良を押して仕事を続けた二夫だったが、ことここに至っては復職が無理なのは誰の目にも明らかだった。

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