文字を持たなかった昭和481 困難な時代(40)土木作業に出る⑤勉強熱心

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりな中、娘の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したこと、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)はついに土木作業に出る決断をし、地下石油備蓄基地の建設という慣れない環境で、土埃にまみれて働いたことなどを述べた。

 一日中体を動かし、晩酌のあとは食卓で眠ってしまうほどだったことも書いたが、二夫の場合、労働と休息の繰り返しというわけではなかった。

 風呂から上がって晩酌までのちょっとした時間や、晩ご飯のあとまだ疲れが押し寄せてきていないとき、あるいは週末少し手が空いたときなどに、現場の用語や仕事の手順、初めて知った技術的なことなどを、びっしりと手帳に書き留めた。ときには「こうすればもっと仕事がはかどるのではないか」というアイディアをメモすることもあった。

 手帳は、鹿児島県が県民生活の利便性向上のために編集販売していた「県民手帳」と呼ばれる小ぶりのものだ。どのくらいの頻度と緻密さでその手帳を取り出して記入し、現場で活用しているのか、たまに帰省する二三四には窺い知れなかったが、二夫は極端に言えば肌身離さずという感じで手帳と向き合っていた。つまり、中年を過ぎて新たに向き合うことになった仕事のことを、ほとんど四六時中意識していたのだった。

 二夫が食卓で熱心に手帳にメモする姿について、ミヨ子は二三四に
「父ちゃんは真面目あいやっでやねぇ。いっも帳面を出て、ないか書いちょっきゃっど」(父ちゃんは真面目でいらっしゃるから。いつも帳面を出しては、何か書いておられるよ*)
と話した。

 二夫のこうした、ある部分では極端に真面目で凝り性な性格や行動は、いつか二夫を主人公にして述べる機会に詳しく書きたいので、ここでは簡単に触れるだけにしておく。

 が、このエピソードを書きながら思ったのだが、新しい知識に触れそこに自分の考えを加えていくことを、二夫は楽しんでいたのかもしれない。真面目で凝り性なだけでなく、二夫は好奇心旺盛で、人と交わることが好きだった。新しい環境と人間関係を楽しめて、新たな何かを吸収できる。けして軽作業ではない肉体労働ながら、二夫にとっては楽しい年月だったはずだ。

*ある世代以上の鹿児島弁話者は、相手の年齢や社会的地位によっていく通りもの敬語を使い分けるのが普通だった。ミヨ子たちの世代も妻が夫に対して敬語を使うのは一般的で、当然子供たちもそれに倣った。

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