文字を持たなかった昭和479 困難な時代(38)土木作業に出る③妻の気配り

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、娘の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したこと、夫婦だけの生活で支出は多少減ったものの収入増の決定打がなく、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、それでも事態は好転せず、ついに夫の二夫(つぎお。父)は土木作業に出る決断をしたことなどを書いた。

 慣れない環境で一日肉体労働をして帰る夫のために、ミヨ子はさまざまに気を配った。給料を持って帰るぶん以前よりも気を遣うようになったとも言える。

 まず弁当だ。長男のカズアキが高校時代に使っていた大きな弁当箱にご飯とおかずを詰める。肉体労働だからたくさん食べるだろう、というのもあったが、二夫自身ふだんからお米のご飯はいつもお代わりしているためでもある。おかずは、たいしたものは入れられなかったが、ご飯が進むようなものを作って詰め込んだ。できるだけたんぱく質の「おかずらしい」ものは欠かせない。野菜は、家の畑で獲れたものを朝晩ふんだんに摂っているからあまり考えなくていい。その弁当を、二夫は毎日きれいに空にして持ち帰った。

 二夫が帰ってきたらすぐ風呂に入れるようにもした。風呂は薪で焚く。家族が3世代6人だったころに改装した大きな風呂釜だったので、どんなに火力の強い薪を使っても沸かすのに小1時間はかかる。冬場はもっと長い。沸かす間つきっきりというわけでもないが、火が尽きていないかちょくちょく見に行かなければならないし、薪を足さなければならない。以前なら汚れる農作業でなかった日は風呂を沸かさないことは普通にあったが、一日埃まみれになった夫を迎えるのに、風呂なしというわけにはいかなかった。

 風呂のあとは鹿児島でいう「だいやめ(だれやめ)」<206>、つまり晩酌だ。小ぶりのグラスに焼酎を注ぎお湯で割る。その分量は二夫が気分と体調に応じて自分で作った。晩酌に合わせて酒の肴を用意する習慣はなかったし、晩酌と晩ご飯のスタートはいっしょだったが、二夫の分のおかずは量を多めにして、つまみとしても食べられるようにしてあった。

 二夫がゆっくりと晩酌しご飯を食べ終わる頃には、布団を敷いておく。夫婦ふたりになってからは、食卓代わりのこたつテーブルを置いた居間とその隣の座敷が生活空間のほとんどになっていて、布団もその座敷に敷いた。

 だから二夫の場合、ほどよく酔ったあとはごろりと布団に寝ころべばいいはずだが、柱を背にした食卓の定位置でうとうとし始めるのが常だった。冬場こたつが入っているとそのまま寝てしまう。
「父ちゃん、布団に直って寝らんな、だれも止まんが*」
ミヨ子がそう何回か声をかけ、あきらめて毛布を肩からかけてやる、という光景もたびたび繰り返された。

 ミヨ子は、家では夫が少しでも快適であるようにと常に気を遣っていたが、食べものに一切文句を言われないのはありがたいと感じていた。どんなおかずでもどんな味付けでも、二夫が何か言ったり不満を顔に出したりしたことは一度もなかった。それは結婚してから亡くなるまで一貫していて、ミヨ子にとってひとつの安らぎであり救いでもあった。

<206>だいやめについては「345 梅の実のある風景(6)梅酒①」でも説明した。
*鹿児島弁。「布団に入りなおして寝ないと、疲れもとれませんよ」

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