文字を持たなかった昭和442 困難な時代(1)始めに

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、今秋二三四(わたし)が帰省した際のミヨ子とのエピソードを集中的に書いた。その前は、着ていた服やお化粧などおしゃれ、舅や姑の介護などミヨ子が現役主婦だった頃のことをテーマを分けて述べた。合間に、ミヨ子の近況、それに昭和期のマナー等の思い出や最近の雑感など二三四自身の想いも挟んでいるが。

 そろそろ、「文字(などの表現手段)を持たなかった昭和の身近な人々の代わりに、その来し方を記録しておきたい、手始めにまず母親であるミヨ子について書いておく」という最初の目的に立ち返り、ミヨ子の半生の続きを書いていこう。具体的には、昭和50年代前半に取り組んだもののうまくいかずにやめてしまい借金だけが残ったハウスキュウリ〈194〉の、そのあとということになる。

 これから書こうとするのは、時代でいえば昭和50年代半ば、1980年前後からのこと。ミヨ子や夫の二夫(つぎお。父)は50代に差しかかる頃、二人の子供のうち長男は高卒で県内に就職し、下の長女、つまり二三四は「汽車」〈195〉で20分ほどかかる県立の普通高校に通っていて、家族3人の生活だった。

 詳しくは「ハウスキュウリ」の項で述べたが、さまざまな事情でハウスキュウリを続けられなくなったのは、二三四が高2の頃。取り組んでいる間でも順調だったとは言えず、莫大な初期投資に加えランニングコストがかさみ、負債は増える一方だったはずだ。栽培をやめて施設を手放しても、借入金の元本はまだ残っているのみならず利子は日々増え続けたのだから。

 高校生の二三四はもちろん、妻であるミヨ子ですら、借入金の具体的な額も利子を含む借入契約の詳細も、二夫からは聞かされていなかった。が、重油を焚いてビニールハウス内を温めるという、当時としては先進的な促成栽培の施設の一式は、百万円の桁の借入であろうことは、薄々見当がついた。数年間の事業はほとんど空回りしていたから、借入はほとんど返せていないことも。

 キュウリはやめてしまったが、借金は残っている。どこかからか工面して少しずつでも返さなければならない。この頃からかなりの間、ミヨ子たちは苦しい時代を過ごすことになる。経済的な厳しさを背景に、いわゆる難しい年ごろの娘を抱えて、家庭内の雰囲気がやわらぐことは少なかった、という意味でも苦しい時期だった。

 その一つ一つを振り返るのは二三四にとって楽しい作業ではない。が、ミヨ子という女性がどんな困難をどう乗り越えたのか、あるいは乗り越えきれなかったのか、という視点から一家のこの時代を綴ってみたい。

〈194〉ハウスキュウリについては「キュウリ栽培へ」「ハウスキュウリ(28)夢の跡」
〈195〉この頃、「国鉄」(鹿児島本線)の列車はとっくに蒸気機関車ではなかったがまだ「汽車」と呼ばれ、二三四たちのような生徒は「汽車通学」組と言われていた。


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