文字を持たなかった昭和379 ハウスキュウリ(28)夢の跡

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げてきた。植えつけ手入れ収穫、やがてキュウリの生長スピードに収穫が追いつかなくなったこと。思うに任せない事態がいくつか出来する中ミヨ子が農薬中毒になってしまい、ついにこの事業を手放す決断を夫の二夫(つぎお。父)がしたこと。
 
 そしてあとかたづけまで書いたのだが、じつはビニールハウスの解体作業はすぐには行われなかった。

 大型のビニールハウスはミヨ子たちがキュウリをやめてしばらく、少なくとも数か月はそのままだった。数々の「負」の思い出に加え、長女の二三四(わたし)にとってビニールハウスがあったのは、もともと通学路上でも、ちょっとした買物の方向でもない場所であったため近寄る気になれなかったのだが、家からいちばん近い小さな郵便局まで行けば見える位置でもあった。手紙を出しがてらそっと視線を移すと、もう誰も通いも働きもしない白っぽい建屋が日差しの中に浮かんでいて、生なましい胸の傷が痛んだ。

 あとかたづけの具体的な工程や作業について、家の中で語られることもなかった。今にして思えば、農協の土地と、農協が融資の際の抵当に入れていたであろうビニールハウス(の資材や設備の数々)は、二夫が勝手に動かすことはできず、農協の判断を待っていたのだろう。あとかたづけも、農協のスケジュールによって進められたのかもしれない。

 いずれにしても、子供の二三四はもちろん、妻のミヨ子にも「わからない」ことばかりだった。

 ただ明確なのは、多額の借金が残されたことだ。

 大山鳴動して鼠一匹。大がかりにキュウリを植え、借金一筆。それが、中年を過ぎてから二夫が見た大きな夢の結末だ。

 しかもその一筆はかなり多額で――具体的な金額はミヨ子ですら知らないことは「挫折」で述べた――、その先の長い年月にわたって家族を苦しめた。あとから考えれば、借金を返すために舐めた苦労が二夫の命を縮めた面もあったかもしれない。

 ビニールハウスがあった場所はやがて更地になった。さらに40年以上の時間を経て、いまはどうなっているのか。ミヨ子たちの人生の曲がり角になったその夢の跡を、いつかもう一度だけ見ておきたいと二三四は思っている。

※「ハウスキュウリ」の項はこれで終わります。キュウリ栽培に関しては、以下のサイトを参考にさせていただきました。ありがとうございました。
【施設栽培】ハウスできゅうり栽培!促成栽培・抑制栽培の時期やポイント | minorasu(ミノラス) - 農業経営の課題を解決するメディア (basf.co.jp)
きゅうり栽培を始めます!露地栽培とハウス栽培のメリット・デメリットを教えて (yuime.jp)
キュウリの収穫時期と収穫方法は? | 野菜の育て方・栽培方法 | 初心者向け野菜の育て方情報サイト! (xn--m9jp4402bdtwxkd8n0a.net)

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