文字を持たなかった昭和376 ハウスキュウリ(25)農薬中毒②

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げ、苗の植えつけ手入れ収穫、やがてキュウリの生長スピードに収穫が追いつかなくなっていた状況などを書いた。思うに任せない状況がいくつか出来する中、致命的な事態が起きた。ミヨ子が農薬中毒になったのだ。

 いまなら、中毒というよりアレルギーと呼ぶべきなのだろう。ビニールハウスに入ると具合が悪くなった。農薬散布から一定時間経っていても同じで、つまりは、ハウス内に農薬の成分が残っているから、ということのようだった。

 だからと言って、ハウスキュウリを全部やめるわけにはいかない。ビニールハウス内での作業は専ら夫の二夫(つぎお。父)が担うことにして、ミヨ子はハウス外でもできる作業を担当した。

 と言うのは簡単だが、ほとんどの作業はビニールハウスの中で行われる。毎日ではなくても、近所の主婦などに、わざわざ日当を払って手伝ってもらうしかなかった。
「日当っていくらぐらいなの」
二三四(わたし)が興味から、しかし遠慮がちにミヨ子に訊いたことがある。返ってきた答えは、「土方」と言われる日雇いの土木作業より少し少ないくらい、しかし、どう計算しても両親が1年働いた全収入をその実働日数で割った金額よりはるかに多いと思われた。

 家が忙しいから、という理由で部活をやめざるを得なかった二三四も、早めに下校できたときなどは、平日でも中学時代のジャージなど汚れてもいい服に着替えて、ビニールハウスに行って手伝った。二三四が着くのと入れ替わりにミヨ子は帰り、夕食の支度をするのだ。

 そのうち、ビニールハウスの外の作業でも、ビニールハウスから近いというだけで、ミヨ子の体調が崩れるようになってきた。毎晩のキュウリの選別は無理して続けていたが、これもつらそうだった。

 やがて、ハウスキュウリだけでなくおよそすべての農薬――稲作や、他の畑作で使うもの――に対しても、ミヨ子の体は反応するようになる。こうなると農作業自体続けられなくなるのは明らかだった。

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