文字を持たなかった昭和375 ハウスキュウリ(24)農薬中毒①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げ、苗の植えつけ手入れ収穫、そしてキュウリの生長スピードに収穫が追いつかなくなっていた状況などを書いた。忙しい最中に姑のハル(祖母)が亡くなったり、夫の二夫(つぎお。父)がビニールハウスの屋根から落ちたりといった、運の悪いこともあった。

 いろいろなことが負のスパイラルに嵌っていっているようにさえ思える流れの中で、これこそ取返しがつかないと思われる事態が起きた。ミヨ子が農薬中毒になったのだ。

 キュウリはそもそも病気にかかりやすい野菜で、気密性の高いビニールハウスでも病気予防や害虫駆除のために農薬を使う機会はあった。準備や散布は主に二夫(つぎお。父)が行うのだが、換気設備がなく、せいぜい屋根のビニールを広めに開けるぐらいしか放散の手段がない環境で、ミヨ子も農薬を吸い込んだ。

 昭和50年代前半、1970年代半ば頃に、農薬散布用の防毒マスクが一般の農家で使われていたのかどうかはわからない。農薬を散布するとき、二夫がマスクをつけることはあったが、それとてガーゼを重ねた「給食マスク」と変わらなかったし、田んぼのような開放的な場所では「換気がいいから」という理由でマスクをつけないときもあった。

 ミヨ子が「用心のため」つけるマスクも、やはりガーゼマスクだった。ビニールハウス内に農薬を撒いたときの様子を、ミヨ子は
「ハウスのずーっと先まで、霧がかかったように白くなる」
と語っていた。

 中毒になったのは、ハウスキュウリを始めた年ではなかったと思う。そうであれば1年目でやめていた可能性が高いから。1年、2年と続ける中で、何か月置きかに「霧がかかったように」なるほどの農薬をハウス内に撒いたことで、体内に毒物が蓄積されたのだと思う。

 中毒の具体的な症状を、二三四(わたし)は忘れてしまったのだが、しばらく体調が悪いのが続くものの、原因がわからず「なんだろう?」とミヨ子は不安そうだった。そのうち、農薬を撒いたときに必ず同じ症状が出ることに気づき、本人も周りも
「これは農薬中毒だ」
という話になったのだった。

 ハウスキュウリを始めて2年目だったか、3年目だったか。ともに昭和一桁生まれの二夫とミヨ子が中年を過ぎてから取り組んだ新しい事業は、大きな曲がり角を迎えていた。

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