文字を持たなかった昭和378 ハウスキュウリ(27)あとかたづけ

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げてきた。植えつけ手入れ収穫、やがてキュウリの生長スピードに収穫が追いつかなくなる状況が続いたうえ、思うに任せない事態がいくつか出来する中、ミヨ子が農薬中毒になってしまい、ついにこの事業を手放す決断を夫の二夫(つぎお。父)はせざるを得なくなった。

 それでも、「愛する」かどうかは別にして、長年連れ添ってきた妻が農薬中毒(アレルギー)になってしまったことを契機に事業を諦める英断を下した点で、二三四(わたし)は父親を少しは立派だったと思っている。ただし「少しは」がつくのは、どういった動機と経緯からから、農協との協議を優先して、家族とくに妻のミヨ子にはろくに説明もしないまま、大がかりな新しい事業に突き進み、あげく失敗を招いたのは、控えめに言っても二夫に経営のセンスと能力が欠けていたからだ――と思う。

 もちろん、農業技術者としての勤勉さやセンスと経営者のそれは別の能力であろうことも付け加えておくべきだろう。ただ、小規模農家が多い日本においては、この二つがしばしば混同されている気がしてならない。農業政策や制度の複雑さが、それに拍車をかけてもいる。

 話が逸れた。

 何棟もある大型のビニールハウスの撤去は、どうがんばっても二夫とミヨ子だけではできなかっただろうから、時間的・労力的な負担に加え、手伝いを頼むための金銭的負担もかなりかかったはずだが、そのあたりの景色を二三四は覚えていない。二三四あたりが手伝いに行っても、あるいはミヨ子ですら、役に立たないからいらない、という理由で、最初から「お呼びではな」かったのかもしれない。片づけの手伝いに行った記憶もない。

 二三四にとっては、「わが家「を傷つけ続けたキュウリのビニールハウスだが、それでも何年かを共にした施設をゼロに戻す作業の場面にいることはいたたまれなかったはずで、あえて片づけ作業を避けていたのかも、と今になっては思う。

 だが、「何年かを共にした施設をゼロに戻す作業の場面にいること」がいちばん「いたたまれなかった」のは本来二夫だっただろう。いったいどんな思いで解体の作業に取り組んだのか。その期間、ミヨ子は物心両面でどんなフォローをしたのか。

 ミヨ子ができるとすれば、物理的には栄養があると思われる食事を作るとか、出がけに「あれを」と言われたら「あれ」が何かを察して、衣類であれ、道具であれ、場合によってはお金であれを過不足なく差し出す、といったことだった。それらが二夫の意図するところに合わないと露骨に不機嫌な表情をされたが、ミヨ子はそれも黙って耐えるしかなかった。

 精神的なフォローは、ただただ二夫の機嫌が悪くならないよう、癇に障ることがないよう、考えられる原因は可能な限り排除するよう努めた。ときにその「対策」対応の影響は二三四にも及び、座敷でちょっとごろっとするなどリラックスしたムードでいると
「父ちゃんは疲れてるんだから、帰ったときはちゃんと座ってなさい」
と、二夫の前ではだらけたところがないよう求められた。もちろんミヨ子自身も、少なくとも二夫がいるときは、疲れていても横になることはなかった。

 ハウスキュウリを始めてから生じた家庭内の緊張感は、やめたからと言って減ずることはなく、むしろ昂じていった感がある。ミヨ子にとっても、二三四にとっても、家はくつろげる場所ではなくなった。少なくとも二夫がいるときは。 

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