文字を持たなかった昭和485 困難な時代(44)土木作業に出る⑨入院生活

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりな中、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)はついに土木作業に出る決断をし地下石油備蓄基地の建設現場で働いたこと、慣れない環境での肉体労働ながら仕事を楽しんでいる様子もあったが、コンクリートなど建築材料の粉塵が原因と思われるアレルギーに悩まされるようになったうえ、徐々に体調を崩してついに現場で倒れたところまで述べた。

 前項で触れたとおり、二夫は直腸がんを患っていた。人工肛門の造設はかろうじて回避できたが、かなりの長さで患部を切除した。ちなみに本人に「がん」であることは知らせていなかった。

 入院先は鹿児島市内の大きな病院で、そのこと自体は安心できるものだったが、ミヨ子は二夫の見舞いにほぼ毎日通うことになった。通うといっても車の運転ができないミヨ子は、電車とバスを乗り継いでいくしかない。自宅からJR九州の最寄り駅まで自転車で10分ほど、といえば近いようだが、途中長い上り坂がある。歩いていけば20分くらいかかる。

 幸い病院にはコインランドリーが付設されていたので、着替えの洗濯はここでできた。ただコインランドリー用の小銭が要る。電車やバスに乗るときのためにも、小銭は常に用意しておかねばならなかった。

 鹿児島市内といえば、県民にとっては首都圏における東京都心かそれ以上の位置づけだ。土地勘のない場所へ、乗りなれない交通機関を乗り継いで毎日のように通う――ミヨ子にとっても「試練」の日々だった。それに、二夫がいなくても畑や田んぼの仕事は待っている。近所の人の助けを借りながら、ミヨ子は家と農地の留守を守った。

 入院中には娘の二三四(わたし)も見舞いを兼ねて帰省した。手術後の状態も落ち着き顔色がよくなった父親を見て安心し、ミヨ子に案内されながら病院の中を見て回る。コインランドリーでは洗濯物が乾くまで、ミヨ子といっしょに「番」をした。母娘二人になったとき、ミヨ子が言った。

「こんなことになってほんとにどうなるかと思ったけど、手術も無事に終わって、術後の経過もよくてほっとしてる。お父さんは病院の中で知り合いを作って楽しそうだし」
さもありなんと二三四が頷いていると
「切ったのがお尻のほうだから、トイレに行くのに看護師さんがついていってくれるんだけどね」
と間をおいたあと
「父ちゃんたら、若い看護師さんに手を引かれてうれしそうにしてるの。にやにやしてさ」
とさも不機嫌そうに言った。

 何十年も夫婦をやって、こんなに苦労をかけられても、やきもちを焼くんだなぁ。お母さん、ほんとはお父さんを好きなんだね。二三四はおかしさと切なさで胸がいっぱいになるのだった。

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