文字を持たなかった明治―吉太郎29 前妻セキさん①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 吉太郎の物語では、6人きょうだいだった吉太郎に家族が増えていく様子を追ったあと(大家族①)、手元の除籍謄本のうち三番目に古いもの(便宜上【戸籍三】とする)を眺めつつ、引き続き吉太郎きょうだいの動向を見てきた。

 そして「婚姻」でようやく吉太郎自身の話題にたどり着き、ハル(祖母)との婚姻と同時に、すでに生まれていた長男の二夫(つぎお。父)も吉太郎一家の戸籍に「入籍」した。しかし、吉太郎が再婚だったと孫の二三四(わたし)たちにも伝えられていたことは、前項「後妻さん」で述べたとおりだ。

 吉太郎の前妻はセキと言い、お産が重くて亡くなった。二三四がなぜ知っているかと言うと、実家の仏壇にお位牌があったし、昭和45(1970)年に吉太郎が亡くなってちょっと立派なお墓を建てたときに、セキの名や享年も一緒に彫り込んであったからだ。ミヨ子たち家族はじめ近所の人も「吉太じいさんの一人目の奥さんはおセキさんだった」と語っていた。

 セキの存在は家族や集落の人が知っていたのはもちろん、お寺に「登録」され、亡くなったときちゃんと法要したことは、お位牌があったことからもわかる。のちに家屋敷を取り壊しお仏壇も移す中でお位牌自体はなくなったのだが、お寺の台帳(?)にも納骨堂に収められている過去帳にも、セキの記録はある。

 それによれば、セキは大正14(1925)年7月2日に亡くなっており、享年38歳。これは数え年なので満年齢では37歳だった可能性があり、生年は明治20(1887)年か21(1888)年だろう。

 ただ、セキについてはそれ以上の情報、というと冷たく聞こえるので「話」を聞いたことが、少なくとも二三四にはない。

 ハルが、吉太郎たちと同じ地域の少し離れた集落から嫁に来た人だったから、セキという人も、近所ではないにしてもどこか別の集落、遠くても同じ村で生まれた人だろう。二三四はなんとなくそう思いこんでいた。今考えても、明治から大正の農村の結婚で、よほどのことがない限り遠くの村や町から嫁をもらうなどあり得なかったはずだ。縁のない土地の人どうしでは「素性」もよくわからない。

 セキについて語る人、語られる機会がほとんどなかったのは、後妻として跡取りを産み、家を立派に切り盛りした――実際有能だったという逸話には事欠かない――ハルへの遠慮だったかもしれないし、ハル自身がセキのことに触れるのを好まなかったのかもしれない。

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