文字を持たなかった明治―吉太郎21 大家族⑦家族の変化

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある
 
 明治13(1880)年生れ、当時数多いた「子だくさん家庭の跡継ぎではない男児」の一人だった吉太郎はどんな人生を歩んだのかを探るため、まず家族の状況を見てきた(大家族①)。手元にある除籍謄本のうち、二番目に古いもの(便宜上【戸籍二】とする)を眺めつつ、もともと6人きょうだいだった吉太郎たち一家に家族が増えていく様を見、乳幼児と言える年齢の子供たちが何人も亡くなったことも知った。

 【戸籍二】からはその他のことも読み取れる。

 例えば、吉太郎きょうだいの唯一の女性、長女のタケ(吉太郎の姉)が「明治参拾参年参月弐拾弐日」(1901年)同じ西市来村大里の某と「婚姻届出 同日受附除籍」されていることだ。この「某」の苗字と番地を見ると、吉太郎たちと同じ集落だと思われる。姉のタケはご近所に嫁入りしたわけだ。タケが満23歳のときである(当時の数え方なら24)。

 「除籍」とあるのは「某」が属する戸籍に「入籍」したためで、「某」のほうの戸籍には「戸主松島仲太郎妹タケ婚姻届出入籍ス」と記載されているに違いない。

 興味深いのは、この某の妹が吉太郎きょうだいの三男・庄太郎の妻・ヨシであることだ(【戸籍二】を眺め直して、いま気がついた)。つまり、ご近所の兄弟・姉妹どうしで複数の婚姻が結ばれていたことになる。もっとも当時としてはよくある話だったかもしれない。なにぶん人々の生活範囲は至極狭かったのだから。

 もうひとつは、吉太郎の兄で四男・源太郎の妻(吉太郎からみて義理の妹)チヨの死亡だ。「大正七年拾壱月拾参日午前壱時本籍二於テ死亡」(1918年)とある。チヨは明治11(1878)年生れだから満40歳。当時でも若死にのほうだと思うが、何が原因で亡くなったのだろう。チヨの他界時、源太郎夫婦の子供たちはまだ幼く、末っ子のアキ(大正3年生れ)などはまだ4歳(当時なら五つ)だが、大家族の中なら誰かしら面倒を見る人はいたということだろうか。

 それに、吉太郎や末弟の末吉はまだ独身とは言えチヨとそう年は違わない。二つ三つ年上の義理の姉が亡くなる様子をどんな思いで見ていたのだろう。

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