文字を持たなかった昭和403 介護(22) 姑⑯お別れ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きいてきた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況()、舅・吉太郎(祖父)()に続き姑・ハル(祖母)のお世話。「徘徊」粗相から、やがてほとんど寝たままの状態になった。布おむつを手縫いし食事は3食手作りして考え得る限りのお世話をしたが、おむつを外してしまうこともあったし、お風呂にはほとんど入れてあげられなかった。

 人には均しく寿命があり、そのお世話も終わるときが来る。

 「ボケ」が少しずつ進み、昭和52(1977)年年の秋から床に就きはじめたハルは、翌春、ハルにとって初孫の和明(兄)が就職し家を出て、下の孫の二三四(わたし)が高校へ入った頃にはめっきり体力が衰え、ほとんど動けなくなっていた。

 「ハウスキュウリ」の項で述べたように〈174〉、この頃ミヨ子たち一家はハウス栽培のキュウリにある意味振り回されており、二三四は進学先で新たに入ったばかりの部活も早々に辞めなければならなくなるほど、家の中がうまく回っていなかった。ミヨ子は、家事の切り盛りと農作業を回す傍ら、ハルのお世話もできる限りやったが、十分とは言えなかったかもしれない。

 ハルはだんだん衰弱していき、寝ているだけの時間が長くなった。目が醒めたら、お茶やおかゆを与えるが、食べられる量はだんだんと減っていった。そして、目が醒めてもすぐに目を閉じることも増えた。声をかけても、聞こえているのかいないのか、瞳は光を失っていた。

 その日の夜、ハルの様子を覗きにいったのは二夫(つぎお。父)だったか、ミヨ子だったか。
「おばあちゃんが息をしてない」
すぐさまかかりつけのお医者さんが呼ばれた。かかりつけと言っても、ハルはほとんど医者にかかることはなかったから、寝込み始めたころに1,2度往診に来てもらった程度。二夫もミヨ子もこのお医者はそれほど信頼していなかったが、小さな町には病院自体が少なく、往診までしてくれる医者はそもそもここしかなかった。

 少し額が後退しているが色艶も体格もいいそのお医者は、布団に横たわるハルの脈を取り、瞼(まぶた)を開き小さな懐中電灯で瞳孔を確認して、厳かに言った。
「ご臨終です」

 死亡が確認されたのは5月28日、日曜日。除籍謄本には「午前零時二拾分死亡」とあるが、お医者を呼んだ時間か、お医者が確認した時間か、はたまたお医者による推定時刻かはたしかめようがない。死因は当然「老衰」だ。腰が曲がってはいてもがっしりした骨格が見て取れたハルの体は、ずいぶん縮んでしまったように見えた。

 キュウリが忙しくてたまらないときではあったが、ハルの葬儀は旦那寺のしきたりと地域の習慣に合わせて、順序よくしめやかに執り行われた。以前なら葬儀のときは集落じゅうと親戚が集まって料理を作ったりしていたが、この頃には仕出し屋さんに注文するのが一般的になっていた〈175〉。ひらたく言えば、葬儀もお金で済ます時代に入りつつあったのだ。だから、葬儀にかかる労力が農作業に与える影響はかなり軽減されてはいた。

 なにより、ハルのお世話にかかっていた労力と時間がぽっかり浮いてきたのは、ある意味ありがたいことだった。あるいは、ハウスキュウリという新しい事業に右往左往し神経もすり減らしている息子や嫁、孫たちの負担を減らしてやろうと、ハルは思ったのかもしれない。

 ハルが亡くなったことで、家の中の「人口」はたった3人になってしまった。しゃべれなくても、手がかかっても、ハルがいるのといないのでは、家の中の一種の賑わいはまったく違っていた。とりわけ母親を亡くした一人っ子の二夫が受けたダメージは、かなりのものだったはずだ。

 こうして、ミヨ子の舅・姑の「お世話」は終わりを告げた。

〈174〉ハウスキュウリについては「351ハウスキュウリ(1)始まり」から「379ハウスキュウリ(28)夢の跡」に述べた。
〈175〉ハルが亡くなったときの様子は「371 ハウスキュウリ(20)ハルの死」でも触れた。


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