文字を持たなかった昭和385 介護(4)舅② 

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 ミヨ子が「嫁」として仕え、最期を看取った舅と姑の亡くなる前の介護の様子を記しておくことにして、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のことである。

 「当時の状況①」「当時の状況②」で、介護という概念すらなかった当時を振り返ったあと、前項で舅・吉太郎(祖父)のお世話についてを述べた。もっとも吉太郎は寝込んで2週間ほどで大往生したため、いまでいう介護らしい介護はあまりしなかったことも。 

 吉太郎の最期がそんな感じだったので、家族には「人はこういうふうに亡くなるのだ」と刷り込まれた。つまり、亡くなる少し前に寝込んで、ほどなく息を引き取る、ぼけたりすることはない、と。

 もっとも当時の多くのお年寄り、とりわけ農村で体を酷使してきた人びとは、頭が弱くなるまえに体のあちこちに故障が出て、いずれ心臓が弱るか、脳溢血などでこと切れるか、というケースが多かった。いまでいう「認知機能」が低下しても体はそれほど弱っていない、というお年よりは極めて少なかったのだ。

 とは言え、吉太郎も食事や排泄に介助が必要な期間は短かったがあった。寝込んだ大人が相手なので、小さな赤ん坊の世話をするのとは勝手が違う。当時といまとでいちばん違うのは、おむつだろう。

 「ひとやすみ(おむつあれこれ)」で触れたとおり、テープで止めるタイプの赤ちゃん用紙おむつが日本でも発売されるのは1981年頃で、それまでは布おむつをほとんど手縫いして用意し、繰り返し洗って使っていた。おむつの汚れを軽減するためにチリ紙を敷いて使うこともあった。

 人口あたりの赤ちゃんの数はいまと桁違いに多かったので、社会のふつうの生活、ふつうの光景の中に、洗った「布おむつ」を干す光景があった。つまり、古い浴衣などで布おむつを縫うこと、それを使うこと、そして(往々にして手で)洗うことは、日常の作業だったのだ。

 だから、吉太郎が寝込んだときも、ミヨ子は真っ先に古くなった着物をほどいておむつを縫った。赤ちゃん用ならできるだけ着古して柔らかくなった布で、縫い目が肌に当たらないよう気をつけるところだが、大人、それも皮膚が硬くなったお年寄りの男性だから、その点はあまり気を使わなかった。もともとミヨ子はあまり縫物が得意でなかったせいもある。縫い上がったおむつは、ただでさえ二次元的な着物を、さらに直線的に断ち切り、輪っかに縫い合わせただけのように見えた。

 ただ「舅①」で述べたように、吉太郎は体が弱っただけで亡くなる直前まで意識ははっきりしていたから、お小水は姑(祖母)のハルが尿瓶で受けてあげていた(「大」をどう処理していたかは記憶にない)。おむつはあくまで「念のため」の措置だった。

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