文字を持たなかった昭和383 介護(2)当時の状況②
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
家業である農作業を取り上げることが多いが、ミヨ子が「嫁」として仕え、最期を看取った舅と姑の、亡くなる前の介護の様子を記しておくことにして、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のことである。
前項「当時の状況①」では、当時は介護という概念はなく「お年寄りのお世話」であったこと、「お世話」は基本的に家庭内でするもので、多くは「嫁」を中心とする女性の役割であったことなどを述べた。長寿が喜ばしいことばかりではないのではないか、という意識を喚起し話題になった有吉佐和子の『恍惚の人』(1972年)にも触れた。
さて、昭和40~50年代当時でも老人向けの施設はあったし、ミヨ子たちが住む小さな町(自治体)にも公設の老人ホームがあったが、入居するのは「身寄りがなく自立生活できないお年寄り」に限られていた。家族がいて、まして女手があれば、自宅で「お世話」するのが当たり前だった。
何より――ここが大事な点だが――「子供がいるのに年老いた親を見ない」なんて、あり得ないことだった。年をとって「お世話」が必要になる年齢であれば、いまと違って子供のほとんどは結婚している。親と同居しているのは、家を継いだ男子(多くは長男)のことが多い。当然のように「お世話」はその妻の役割となる。
わたしは、三世代同居や親孝行など、従来型の家族形態や、それにもとづく倫理観は尊重されるべきだと思っている。
ただ、「家」を運営し継続させるに当たって、女性、とくに主婦(嫁)が無償で労力を提供することが、あまりに当然のように扱われてきた面があることも強調しておきたい。そこには歴史的背景も、文化的土壌、伝統的概念などが複雑に絡んでいるが、極めて簡潔にいうと
「家の中のことは女(嫁)がすべて対応、処理すべきで、男によけいな手や心配をかけさせるべきではない」
という暗黙の了解、前提が強く働いていたと思う。ただし、家の中のことであっても金銭面など重要なことを決めるのは、もちろん男(家長)である。
教育、すなわち自分で情報を得て判断する機会と訓練を、あまりあるいはほとんど得られなかった庶民層、とりわけ女性は、世間の常識(世間の目ともいう)、社会規範といったものを「あたりまえ」「そんなもの」と教わり、自らもそう捉え、長じてからは再生産していった、と言えるだろう。鹿児島の農村で昭和5年に生まれたミヨ子は、その一例であり、典型でもある。
そんなミヨ子にとって、いや家族全員にとっても、高齢になって弱ってきた舅の「お世話」を家で行うのは当たり前すぎるほど当たり前のことだった。
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