文字を持たなかった昭和400 介護(19) 姑⑬入浴

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きいてきた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況()、舅・吉太郎(祖父)のお世話()に続き、姑・ハル(祖母)について。「徘徊」したり粗相したりから、やがてほとんど寝たままの状態になったが、ミヨ子は愚痴ることなくお世話を続けた。とくに床ずれには気をつけた。

 介護用品など市販されておらず、各家庭が手探りでお世話をしてた時代。食事、おむつ交換が優先され、いまの介護用語でいう「清拭(せいしき)」は、お湯で絞ったタオルなどで体を拭いてあげるのがせいぜいだった。使い捨ての除菌ティッシュなどもちろんない。

 いまなら1日タイプのデイサービスには入浴がセットされているし、被介護者の状態によっては自宅で入浴サービスを受けることもできる。しかし当時は、「ボケた」お年寄りを抱えた家庭ごとに、ほとんどすべての「お世話」を引き受けざるを得なかった。家庭での入浴は極めて困難だった。

 ほとんど寝たきりのハルに対しても、ミヨ子たちは「お風呂に入れてあげたい」と思いながら、手を拱いていた。「床ずれ」でも触れたように、ハルは大柄で骨格もがっしりしていたから、ふだんのおむつ交換や清拭もけっこう大変だった。ましてお風呂に入れるなんて。

 当時、ミヨ子の嫁ぎ先の家のお風呂は薪で焚いていた。洗い場はタイル貼りでわりあいきれいな造りではあったが、湯舟に入るには高めのへりを跨がねばならず、湯舟も深かった。下手をすると、ハルが溺れたりケガをしたりするかもしれない。お世話する側もケガをする危険性があった。

 それでも、ほとんど寝たきりになって数か月、さすがに一度はお風呂に入れてあげたい、という話が誰からともなく持ち上がった。とは言っても、介助する人は限られるのだが。

 当時中学3年だった二三四(わたし)がいたから、それは日曜日か休日だったのだろう。秋、比較的暖かい日、昼間からお風呂が焚かれた。湯舟が大きいわりに焚口が小さめだった風呂は、沸くのが遅い。もう水も夏の間ほど温かくはない。二夫(つぎお。父)と二三四が交代で、小一時間かけてお風呂を沸かした。

 浴室にハルを連れてくるのは二夫とミヨ子だ。足腰が弱っていたが、二人で抱えればなんとか洗い場まで連れて来られた。風呂椅子を使う習慣はなかったので、椅子代わりに桶かなにかを置き、ハルを座らせて、寝間着を脱がせた。こまめに拭いていても、ずっと入浴していない体からは饐えた匂いがした。

 ここで焚口のほうは二夫が、二三四は体を洗う係へ回った。シャワーはない。湯舟から洗面器でお湯を汲んでハルの体にかける。どんどんお湯を使うから湯舟にも水を足す。焚口では二夫が薪を次々に追加して、お湯の温度が下がらないようにした。

 ある程度お湯をかけて体の汚れを浮かしたら、石鹸をつけたタオルで体をこすってあげる。頭も洗う。ハルは気持ちいいと感じるより、突然の状況展開に戸惑っている様子だった。お湯をかけられる度に
「あらよー*」
と呟き、ちょっと迷惑そうに眼をつぶった。

 ひとしきり体を洗ったあとでもまだまだ垢が出そうな気もしたが、あまり長時間裸でいさせるわけにもいかない。
「だいたい、いいかしらね」
とミヨ子が言い、湯加減をたしかめハルを湯舟に入れた。ここは三人がかりである。二三四は底に敷く板〈173〉が浮かないようにする。鋳物の湯桶を直接加熱しているので、湯舟の底は熱いのだ。お湯に入れたあとでも、ハルが姿勢をくずしてうっかりお湯に顔をつけてしまわないよう二三四は見張っていた。

*鹿児島弁。驚いたときの「あらまあ」「おやおや」、どちらかというと困惑しているニュアンスがある。
〈173〉踏み板、あるいは下水板(げすいた)と言うらしい。鹿児島弁で何と言っていたか記憶にない。

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