文字を持たなかった昭和 七十三(茶摘み)

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る
 あれに見えるは茶摘みじゃないか 茜襷に菅の笠〈71〉

 またまた唱歌を拝借した。
 八十八夜は過ぎたが、若葉の季節は新茶の季節でもある。唱歌「茶摘み」が歌う風景はある世代より上の人には比較的すんなりイメージされるだろうし、若い世代でも昔の茶摘みの映像を見たことがある人もいるかもしれない。

 ミヨ子(わたしの母)はもちろん前者であり、しかも自分でも茶摘みをした経験がある。なぜなら嫁ぎ先の畑に茶の木があったからだ。

 ミヨ子が生まれ育ち、結婚してから今も住んでいる鹿児島県は静岡県に並ぶ茶の生産地で、たまに生産量で静岡を超えたりする。品質でも全国有数だ。ただそのこととミヨ子の家のお茶の木は関係ない。家の茶の木は基本的に自家用だったからだ。つまり、自宅で製茶していたのだ。

 嫁ぎ先は、舅の吉太郎が徒手から買い集めたたくさんの田畑と、大きな屋敷を持っていた。屋敷の庭先にはそこそこの広さの畑があった。いくつかの畑の脇には茶の木が植えられていた。茶の木が若芽をつける頃になると、主たる農作業の合間に茶摘みもしなければならなかった。

 わたしの視点で考えてみる。

 ほぼ全てのもの、とくに口に入れるものは基本的に自給自足である時代が長かった農村においては、食料はもちろんのこと、嗜好品のお茶に至っては自分で作るしかなかったのだろう。現金収入の機会が限られていたため――米は秋にならないと収穫できないし、野菜も果樹も、収穫できる季節はそれぞれ決まっている――、日常的に現金で何かを買うことは稀だった。些細な額でも頻繁に買い物することは、将来のために使えるお金が減ることを意味した。

 だから、ある程度の畑を手に入れた吉太郎は、畑の脇などに茶の木を植えたのだろう。あるいは、二人目の妻ハル(わたしにとって祖母)が嫁いできてから茶の栽培を始めたのかもしれない。ハルはとても働き者で知恵のある人でもあったから、自家製のお茶を作ったうえ、余ったら売るぐらいのことはしただろう、と思える。

 地域一帯の畑には茶の木がよく植わっていた。茶の木だけの畑もないわけではなかったが、隣の畑との間に植わっていることもあった。茶の木には、境界の目印の役割もあったのかもしれない。昭和40年代、子供だったわたしも茶摘みや製茶を手伝った記憶がある。わが家のお茶に関することは、おいおい書いていこうと思う。

〈71〉「茶摘み」作詞作曲不詳。文部省唱歌、明治45(1912)年刊行の唱歌集「尋常小学唱歌」に掲載、原曲名は「茶摘」。一説に『茶摘』は京都の宇治田原村の茶摘歌がルーツとされ、歌詞の二番にある「日本」は元々は「田原」だったという。

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