文字を持たなかった昭和455 困難な時代(14)学費

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり、しかも農村ならではのつきあいから交際費はかかること家計は八方ふさがりだったこと、夫の二夫(つぎお。父)はやる気をなくしてしまい釣りで気を紛らす(らしい)ことが増えたことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 ひとつ前の項では、ツケで買い物する習慣が当時まだ残っていたことを書いたが、もちろんツケにできない支出もあった。そのひとつが、高校生だった娘の二三四(わたし)の授業料をはじめとする学費だ。

 当時が通っていた県立普通高校の授業料がいくらだったか、二三四自身覚えていない。戦後昭和の物価を掲載しているサイトを参照すると、東京都内区部の全日制普通科高校の月額授業料の変遷があり、昭和50年代前半は4000円~5000円とある。鹿児島の場合もう1000円くらいは安そうだが、いずれにしても毎月数千円の授業料がかかっていた計算になる。

 それ以外に、教科書や副教材、カバン、靴・上履き、制服・体操着・ジャージといった服装など指定されたものはもちろん、ノートや筆記具類も都度買い替えていかなければならない。芸術の授業で二三四は美術を選択したので、油絵の道具一式も買わなければならない。

 とうに電化されたのにまだ「汽車」と呼んでいた国鉄(当時)で、4駅分乗って通学するための定期代も必要だったし、最寄り駅の駐輪場を使うのにも、たしか月に200円くらい払っていた。

 昼食は基本的に弁当持参だったし、二三四は学校帰りにどこかに寄って買い食いするタイプではなかったが――喫茶店などへの出入りは校則で禁止されていた――、「汽車」待ちの時間に、駅のすぐ側の駄菓子屋兼パン屋へ友人といっしょに入り、当時人気のあった棒つきキャンディなどを買うことはたまにあり、まったくお金を持っていかないわけでもなかった。

 そんなこんなを合算すると、田舎の公立高校とはいえ、年間ではけっこうな金額の支出がかかったはずだ。あれこれ足し上げると10万円近くになりそうだ。

 じゅうまんえん!

 そんな大金が、当時のわが家のどこにあったのだろうと、二三四は不思議な気持ちがする。とにかく現金を使わないよう、使わないよう、気をつけて生活していた印象が強い。ミヨ子が財布から畳んだ千円札を一枚出すと「けっこう使った」と思ったし、千円札を上回る高額紙幣はめったにお目にかかれなかった。

 経済的な不自由とそれがもたらす圧迫感は常に身の回りにあり、それらをなんとか軽減させようと、母親のミヨ子が気持ちをすり減らしていることも二三四は感じていた。

《参考》
戦後昭和史 - 公立高校・私立高校の学費推移

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