文字を持たなかった昭和454 困難な時代(13)ツケ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり、しかも農村ならではのつきあいから交際費はかかること家計は八方ふさがりだったことなどを述べた。夫の二夫(つぎお。父)はやる気をなくしてしまい釣りで気を紛らす(らしい)ことが増えた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 稲作はかろうじて続けていたので、コメを農協に出せばある程度まとまった収入にはなる。しかし、苗や肥料など農協から「ツケ」で仕入れた分はそこから引かれたから、手元に残る額はかなり減じた。しかもハウスキュウリの負債を農協に支払わなければならない。

 融資を受ける際、いったいどういう契約だったのか知るよしもないが、農協経由の収入から負債分がごっそり引かれて一銭も入ってこないということはなかったようだが――もしそうなら、とっくに破産していた――、負債分もある程度は引かれただろうから、半年かけて稲を育てても、収穫の喜びは大きくなくなった。

 「ツケ」と言えば、収入が不定期な農家が、収穫時期まで支払いを待ってもらいツケでモノを買う、あるいは仕入れることは、当時当たり前に行われていた(その例を「二百三十九(正月支度――新しい衣類)」でも触れている)。ツケで買うのは、日常使うちょっとしたものや食品以外の比較的高額なものが多かった。

 おそらくだが、農協ができてからツケで買えるモノの範囲は広がったのではないだろうか。それに、スイカ栽培やハウスキュウリの項でも触れたとおり、初期投資でも維持でも、必要な農業用資材や用品、燃料までも農協でツケで買えた。その代わり、農協との関係は果てしなく拡大し、続いていくのだった。

 自家用車を持ってからは、ガソリンも農協で入れていた。農協だから割安というわけではなくむしろ一般のガソリンスタンドより高めだったが、現金で払わなくてよいのは大きなメリットだった。もちろん、短期的には、である。

 農協以外でも、顔なじみの小売り店ではツケで売ってくれるところが、当時はまだあった。二夫がどこかの店でツケで買ったあと、それを知らないミヨ子がそこで買物したときなど、
「ご主人のぶんのツケがあるんですが…」
と言われ恥ずかしい思いをした、と娘に二三四(わたし)話すこともあった。

 けっこう高額なツケでミヨ子もすぐに精算できなかったとき、帰宅後二夫に
「父ちゃん、ツケにしたらちょっと教えてもらいたいんですけどね」
と、二夫の癇に障らないよう柔らかく言うと二夫は黙っていたが、虫の居所が悪いと
「いっでいっでわいに言わんといかんとか」(都度都度お前に言わないといけないのか)
と逆襲(?)された。

 もっとも、ツケという商習慣はこの時代には急速に縮小しつつあり、ツケでモノを買える場所はどんどん減っていった。農協以外は。

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