文字を持たなかった昭和 二百三十九(正月支度――新しい衣類)

 本項掲載時点で今年(2022年)も残り2週間ちょっと。いわゆる「慌ただしい年の瀬」の最中だ。
 
 昭和中期の鹿児島の農村で、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが勤しんだ正月支度について書いておきたいが、そのひとつが新品の衣類の購入である。

 ミヨ子たちは、下の子の二三四(わたし)が物心ついてからかなりたつまで、いろいろな物品の購入を「つけ」で行っていた。具体的に何が対象だも含めて直接確認はしなかったが、コメを出荷した代金が入るのを見計らって、数か月から1年分のいろいろな支払いをしていたのだと思う。新しい衣類も、正月が近づいてから買うものだった。

 冬の夕方から夜に、町内の商業地区に店を構える洋品店「伊勢屋」のご主人が、いろいろな衣類をスクーター、のちには車に載せて運んでくる。屋号からして元々は呉服屋だったに違いないし、たまに街中に言って店先を覗くと反物も置いてあったから、呉服屋時代からのおつきあいだったのだろう。

 ご主人は恰幅も色艶もよくて、ミヨ子たちが住む農村部の集落にはいないタイプの人だった。畳の上に大きな風呂敷を拡げ、
「これは奥さんに」
「こっちは和明くん(兄)に。ちょっと大きめだから2、3年は着られますよ」
「二三四ちゃん(わたし)にはこれが似合うよ。今年流行っている柄だよ」
などと言いながら、分厚い手で新品の衣類を何枚も取り出して見せるのだった。

 ミヨ子は自分の好みというものをはっきり自覚していなかった。自分の考えを述べることに慣れていなかったとも言える。言わなくていいことは考える必要がない。誰かが「これがいいよ」と言えば「そうですかね」*と曖昧に笑いながらそれに従うのが常だった。

 唯一、予算的な制限はあった。だいたいの予算に収まるなら、伊勢屋さんが奨める衣類を買っておけば間違いはないだろうと思った。そもそも、おしゃれな衣類を身に着けて行く場所などほとんどない。それは子供たちも似たようなものだった。

 秋から冬の時期、厚手のもの、防寒の衣類を購入した。子供たちが去年同じように買った衣類はもう小さくなっていたから買い替えなければならなかったが、大人用のはまだ着られるものもあって、そこは「財布と相談」だった。

 「つけ」で買う分、通常の値段より少し高かった。多めに買えば多少割引してくれたが、元々種類が少なく、さらに二三四たち子供が夢中になって見るようになったテレビで子供たちが着ている服に比べて垢ぬけない感じがして、二三四はご主人が奨める服は苦手だった。それでも「服は伊勢屋から」というのがわが家の決まりだと思い込んでいたので、母親のミヨ子が
「二三四、これでいいよね?」
と言えば頷くしかなかった。

*鹿児島弁:「こいがよかが」「じゃろかいなぁ/じゃんそかいなぁ」 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?