文字を持たなかった昭和445 困難な時代(4)現金支出

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書いている。楽しい内容にはなりそうもないことをお断りしておく。

 前項「現金収入」で触れたように、専業農家であるミヨ子たち一家には安定的な収入はなかった。その一方で、固定的とも言える現金支出は必ずあった。

 身近なところでは、電気やプロパンガスなどの光熱費。耕運機などの農業機械に使う軽油。この頃には、運搬用や生活の足として車(農家の場合多くは軽トラック)も定着していたから、ガソリン代やメンテナンスの費用。電話代。どうしても買わなければならない食材類。娘の二三四(わたし)の高校の授業料や教材費。国民健康保険料や年金などの社会保険料。そして、車両税や多くはないが固定資産税や所得税などの税金。

 都市生活者というか給与生活者は、生活のほぼすべてがお金と引き換えに成立するのは当然のことと思うだろうが、戦中くらいまで――つまり、ここで描いている時期のつい30年ほど前まで――、ほとんど自給自足で事足りる生活をしてきた人々である。都市のような消費中心の生活にどっぷり移行することは抵抗があったし、なにより定期的な収入がなかった。

 加えて、ハウスキュウリの負債がある。夫の二夫(つぎお。父)から具体的には知らされていないが、その総額は一家の年収をはるかに超えるはずだった。わずかな額でも、支出はできる限り抑えたかった。

 支出の抑制が最もしやすいのは、食費である。米や野菜は基本的に自給できるのだから。しかし、種苗代や肥料などコストはかかるし、当然ながら自給できないものもある。肉や魚、豆製品といった蛋白源はその代表だ。調味料も、せいぜい味噌を手作りできる程度で、醤油や酢、食用油の類は買ってくるしかないし、ましてすでに台所の定番となっていたチューブ入りマヨネーズなど、自分で作れるとは思えなかった。つまるところ、食費も劇的に節約できるわけではなかった。

 これは誰でもわかるようなことなのに、虫の居所が悪いときなど、二夫は自分の母親のハル、ミヨ子にとっての姑を引き合いに出して
「婆(ばば)は醤油も自分で作って、売りに行ったりしていたものだった。お前は工夫が足りない」
とミヨ子に言うことがあった。

 そんなとき、ミヨ子は口答えしない。ミヨ子にしてみれば「言い返しても現実の状況は何も変らないし、火に油を注ぐだけ。自分ががまんしてやりすごせば、八方丸く収まる」と考えていた。

 いっぽう娘の二三四は、母親はただおとなしくて、夫の言いなりだと思っていたし、父親に対しては「誰のせいで家計が苦しくなったと思ってるんだ」と強い反感を抱いてもいた。それを口に出すことはなかったが、気持ちは往々にして態度に出た。ミヨ子のように我慢づよい性格ではなく「やりすご」せるほど賢くもなかった、と言えるのかもしれない。

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