文字を持たなかった昭和451 困難な時代(10)モチベーション喪失

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があること、しかし農村ならではのつきあいから交際費は出ていくこと、収支バランスがとれず家計は八方ふさがりだったこと、地方と都市圏の農家の違いなど。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 ともかく、一年は巡るし四季折々の農作業には出ざるを得ない。準備も含め、それぞれの作業をこなさなければならない。ただ、ハウスキュウリをやめて以降、夫の二夫(つぎお。父)はやる気、いまで言うモチベーションをなくしてしまったかのように見えた。

 年間の農作業でも稲作についてはきちんとやるのだが、それ以外は自分から計画を立てて植えるものを考えているようには、あまり見えなかった。いや、ほんとうは稲作も含めて何も手をつけたくなかったのかもしれない。

 田んぼはだいたいが低く平らな場所にある。周囲から目につきやすい稲作の作業はせざるを得ない。すでに減反政策が始まってはいたが、田んぼを荒らしていれば
「おや、二夫さんの田んぼはどうしたんだろう。元気にしているのにね」
と噂になることは間違いなかった。父親の吉太郎(祖父)が一代で買い求めた田畑や山林、その象徴である田んぼを放置するなど、一人息子の二夫にはできようもなかった。

 だが、田んぼ以外のことには気が回らないふうだった。季節の野菜やイモ類の植えつけ時期になると、ミヨ子が気をもんで
「父ちゃん、あひこん畑をホタってくれんな?」(あそこの畑を耕してもらえないかしら?)
と促すのが常になった。機嫌のいいときを見計らって、恐る恐る。

 そこで
「よう、ホタいけ行っが」(いいよ、耕しに行くよ)
と二つ返事で翌日にも出かける、ということは稀で、3日過ぎ5日過ぎ、途中雨でも降り1週間が過ぎる、ということは少なくなかった。下手すると植えつけの時期を逃すことさえ。

 もちろん、鍬を使えばミヨ子でも畑を耕すことはできた。だが、広めの畑に一定量の種を蒔いたり苗を植えたりするためには、二夫に頼んで耕運機を動かしてもらうしかない。そもそも、少しでも家計の足しにしようと植える作物だ。ミヨ子が何本か畝を打って植えても、たいした収入にはならない。

 両親のそんなやりとりを黙って聞き、見ていると、娘の二三四(わたし)はいつも暗い気持ちになった。

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