文字を持たなかった昭和452 困難な時代(11)現実逃避

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があること、しかも農村ならではのつきあいから交際費は出ていくこと、結果、家計は八方ふさがりだったこと、地方と都市圏の農家の違いなどを述べた。など。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 そんな状況の中、夫の二夫(つぎお。父)はやる気をなくしてしまった様子なのは、前項「モチベーション喪失」で触れた。

 この頃だったと思う、二夫が魚釣りを始めたのは。ミヨ子たちが住んでいた町には大きめの川もあったが、東シナ海に面していることもあり、魚といえば海の魚で、魚釣りといえば漁港の岸壁などで手軽にできる海釣りを指した。船で出かける楽しみも、もしかするとあったのかもしれないが、そこまで大がかりに仕立てなくても、せいぜい道具とエサ代くらいで楽しめる場所には困らなかった。

 二夫も、自家用車の軽トラに乗って早朝出かけた。そのまま昼近くまで帰ってこないこともあった。夜釣りをする人もいたのだろうが、さすがに危ないと思ったのだろう、夜釣りに出かけることはほとんどなかった。

 手軽な趣味とは言っても、まったくお金がかからないわけではない。まず釣り竿とテグス、針や錘などの初期投資が必要だ。そしていずれも1種類で足りるものではない。それからエサ代。エサは冷凍のオキアミだったり、たまに庭で掘ったミミズだったりしたが、ほとんどは買ってくるものだった。 それらを買うとき二夫は
「おい、どしこか持たんか」(いくらか持ち合わせはないか)
とミヨ子に言い、ミヨ子は財布から千円札を探すのが常だった。家計に貢献しないばかりか、下手すると圧迫しかねないそれらの代金を、ミヨ子は黙って渡し続けた。

 二夫は機嫌のいいとき、
「ずっと釣りに行っていれば、晩飯のおかずが釣れることもあるだろうさ」
と、冗談めかして言うこともあった。が、おかずとして十分なほどの釣果にお目にかかったことは、少なくとも二三四はなかった。

 釣りの趣味はかなり続いた。出かけるばかりで、田んぼはともかく畑のことを構っているようには見えない父親のことを、娘の二三四(わたし)は陰で批難することがあった。ミヨ子は
「そうだねぇ。全然釣れないのにね」
と苦笑したあとで
「父ちゃんも、広ーーい海を見ながら釣り糸を垂れていたい気持ちなのかもね。借金のことも、つらいことも忘れて」
と呟いた。

 二三四からすれば、父親の釣りは現実逃避に思われた。一方、妻のミヨ子はそうしたい気持ちも含めて、現実を受け入れていたのだと思う。それが最善の方法だったのかはわからないが。


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