ミヨ子さん語録「上見て暮らすな、下見て暮らせ」

 昭和中~後期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。たまに、ミヨ子さんの口癖や、折に触れて思い出す印象的な口ぶり、表現を「ミヨ子さん語録」として書いてきた〈208〉。

 今回は、久しぶりに思い出した一言「上見て暮らすな、下見て暮らせ」について。

 鹿児島弁でもなんでもなく文字通りの意味で、「(欲を出して)上を見ればきりがない、自分の下にはもっと大変な人たちがいる、それを考えてつつましく暮らせ」ということだろう。

 多くは経済的に厳しいことが話題に上ったとき、上りそうなときに、半ばあきらめるように、半ば自分に言い聞かせるように、ミヨ子さんが呟いていた。「…と言うからね」と付け加えて。

 学校で平等や民主主義を学び――というか教え込まれた娘(わたし)は、人間に上下をつけるようなこと、とくに自分より下に規定する存在を設けることへの、明確ではないがなんとなくの反発があった、と思う。「と思う」と書いたのは、小学生や中学生ぐらいでは、自分の気持ちをこのように分析できていなかったからだが、「みんな平等なのに」という気持ちが、母親のこの口癖への反発につながっていた。

 ちろん小さい頃は「そんな言い方があるのか」と思いながら聞いていたはずだが、小学校も高学年くらいになると
「お母さん、人間には上も下もないんだよ」
くらいのことを言ったし、さらに年を重ねると
「下を見て満足してばかりで上を見ないで、どうやって向上するの」
と楯突いたりもした。

 ミヨ子さんはその都度「そうは言っても……」と口ごもったり「だってそうでしょ」と小さく反論したりしていた。

 もともとこの言葉は、身分制度が厳しかった封建時代、年貢取り立ての対象である百姓たちを黙らすのに「もっと苦労している階層もいるんだから、お前たちはまだ幸せだろう」と教え込むのに使っていたのではないかと思う。なにごとも個人の意志で進めるのが困難で、どうにもならないことばかりだった時代、自分の希望や欲求をあきらめる、あるいは目をそらすのに、都合のいい「教え」でもあった。一般庶民が個人のレベルで、いろいろな課題に立ち向かえるようになったのは戦後の、つい数十年前のことなのだから。

 一方で、個々の「わがまま」を抑制することで、共同体の秩序と調和が保たれただろう。指導者、とりまとめ側にはありがたい概念であると同時に、共同体の成員も大なり小なり利益を享受できていただろう。

「…と言うからね」とミヨ子さんが言っていたように、当然ながらこの一言は誰かに教えられたものだろう。親かもしれないが、集落の上の世代の人たちが同じように言っていた、と考えるのが妥当だと思う。そうやって、ある概念が共同体の中の教えとなり、常識となるのだ。とりわけ、自分で考える習慣を持っていない、あるいは習慣を養う機会を得られなかった人たちを信じ込ませるのには「昔からそう言われている」という基準は絶対だったはずだ。

 ミヨ子さんはただ素直に、親や周りの大人が言うことを信じ、それを子供にも伝えただけなのだろうと思う。まさか反論されるとは思わなかっただろうが。

 じつはこの言葉には、身分の上下や平等といった概念とは別の人生における含蓄が含まれているとも思う。それは「足るを知る」という考えかただ。なんにつけすぐに手に入る(と思わせるような)社会に住んでいると、何でもほしくなる、何でも手に入るように思える。しかしそれは本当に必要なことなのか。足元をしっかり見て、現実を見極め、周りとの調和の中で自分の立ち位置や生き方を決める。

 もしかすると、ミヨ子さんはそんな本質までわかって、あの一言を言っていたのかもしれない。
 
<208>過去の語録には「芋でも何でも」、「ひえ」、「ちんた」、「銭じゃっど」、「空(から)飲み」、「汚れは噛み殺したりしない」、「ぎゅっ、ぎゅっ」がある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?