文字を持たなかった昭和 続々・帰省余話16 会えるだけで幸せ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。このところは、先日帰省した際のミヨ子さんの様子をメモ代わりに書いている。

 思ったより元気だが、認知機能の低下は確実に進んでいること。食欲はあり、勧めればお酒も飲んでしまうこと。服を着たまま寝てしまう習慣が定着したこと(着た切り雀)。何十年ぶりにいっしょに母の日を過ごせたこと。短い距離と時間ながら、いっしょに散歩もできたこと、などなど。

 ミヨ子さんがデイサービスに行った日を除けば3日間ほどしか共に過ごせなかったが、最近の様子はかなり理解できたし――それはそのまま「安心」にはつながらないが――、何より直接顔を見て言葉を交わせたことは、やはりありがたいことだった。

 散歩から帰ったあとの昼食も、二人でとった。お嫁さん(義姉)が気を聞かせて、お昼どき孫娘(姪)とともに家を空けてくれたのだ。

 簡単だが手作りしたご飯を終えて、コーヒーを淹れ、特別に用意したメロンを切り、甘いお菓子も出す。甘いものが好きなミヨ子さんは「んだ、うんまか(まあ、おいしい)」といくらでも食べてしまいそうな勢い。でも、食べているものが何なのか、なぜわたしがいっしょにいるのかは、たぶんきちんと理解できてはいない。わたしも、食べ物や飲み物を用意してあげるくらいしか、できることはない。

「お母さんがおいしければ、それがいちばん。でも、このくらいしかできなくてごめんね」
「ううん、こうして話ができるからいいよ」
そうだね。会えるだけでも幸せだよね。

 帰省中のある日のミヨ子さんの朝ごはんに、お嫁さんが納豆を出した。ミヨ子さんは自分でかき混ぜて、おいしそうに食べている。お嫁さんが「これ、何?」と訊くと、ミヨ子さんはしばらく考えて「……豆」と答えた。間違ってはいない。そもそも納豆なんて、ミヨ子さんたちが中年になるまで食べる習慣はなかった「後発組」だ。名前が思い出せなくても当然だ! とわたしは思う。

 きっと「納豆だよ」と教えても、その像と言葉は頭の中でふわふわと飛んで、すぐにどこかへ行ってしまうのだろう。記憶も同様で、何かを思い出して掴んでおこうとしても、ふっと霞み、どこかへ消えてしまうのだろう。起きた直後は鮮明だった夢が、すぐに消えてしまうみたいに。

 でも「なにか楽しい夢だった」という感覚は残るように、楽しい気分、おいしい感覚、大事にされた気持ちは心のどこかに残るのだ、と信じたい。

 だから、息子(兄)のカズアキさんから「母ちゃんにいろいろしてやっても、覚えてないぞ」と言われても、わたしは時間とお金がゆるせば会いに帰るだろう。会えない間はせっせと、きれいな絵柄のハガキに簡単な近況伺いを書いて――往々にして同じような内容だが――送ったり、ときにお嫁さんのスマホ経由でビデオ通話をしたりし続けるだろう。

 すべては、生きて会える間にしかできないことだから。

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