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龍神さまの言うとおり。(第11話)

愛媛県、八幡浜市の沖合にある大島。それは、合計五つある島々の総称である。北から、粟ノ小島、大島、三王島、地大島、貝付小島の五つの島々が南へと並んでおり、その中で最も大きい島が最南端に位置する地大島である。ただ、島民の住宅や船着場は、五つある中の大島にあり、自転車レンタル店もその東側に位置していた。

自転車を借り、十五分ほど走ったところで、地大島の南東部に位置する龍王池と、その池を守るように建っている龍王神社が、防波堤に沿って走る二人の前方に見えてきた。

この龍王池は、海岸線からほど近い場所にあるにもかかわらず、池にある水は海水が一切混ざっていない真水となっている。しかも付近に川は流れていない地形であるにもかかわらず、池の真水は枯れることなく満たされた状態を続けているという、なんとも不思議な池であった。

「この辺でキャンプをする予定なんだよ」

防波堤に沿って延びる遊歩道で自転車のブレーキをかけた洋介は、その後ろを走っていた恭子に振り返って、そう告げた。

「誰もいないわね。なんだか神秘的な感じがする」

そう言って自転車を降りた恭子は、周辺を見渡したあと防波堤に登り、海を眺めながら深く息を吸った。

「じゃ、僕は龍王池の周辺に生息する白鷺を観察する場所を決めに行くから、この辺で待っててくれる?」

龍王池の周辺は雑草を含めて多くの樹木が生い茂る場所であったため、軽装の恭子を自分に同行させたくなかったのである。そして洋介は、ひとり雑草を分け入るように、龍王池のほうへと歩き出した。

洋介が部長をしている生物部は、毎年ここに来て白鷺の生息状況を二日間にわたり二十四時間体制で調査している。それは主として、龍王池を中心とした飛行ルートを目視して記録するという手法であった。それによって、対岸の八幡浜市と、大島の双方に生息する白鷺に往来があるのかどうか、また、その理由などを探求する目的があった。

見上げた大島の空は、青く澄み渡っている。気温は高いものの、池の周辺には、時折、海からの心地よい潮風が吹いていた。

しばらくすると、その潮風に乗って、恭子の美しい歌声が、小鳥の鳴き声と混ざり合うように響き始めたのだった。

「北山さんが?何か歌ってるのか?これって・・・、英語の歌?」

その歌声を聞いて思わず立ち止まった洋介は、つぶやくように言った。

響き渡るような恭子の歌声は、周辺の神々しい雰囲気を、一段と神聖な空気へと変えてゆくようなパワーがあった。

そして、歌声が続くにつれて、さえずっていた小鳥たちの鳴き声や、風に揺れてざわめく樹木の葉音が、洋介には聞こえなくなっていたのである。

「どうしたんだ?」

鳥や風の音を聞き取ろうと、自分の耳に手を添えながら、洋介は周囲を見回した。何やら、すべてが静止画のように止まっているようである。

空を流れる雲、枝葉や草木のゆらぎ、池の水面に見えるさざ波までも、洋介には全てが止まっているように見えた。しかし、恭子の歌声は、今もなお、はっきりと聴こえている。

突然、何かを思いついたように洋介は、歌声の聴こえる海岸のほうへと走った。その視線の先には、海沿いの防波堤に立って歌う恭子の姿がある。長い黒髪を結い上げ、両手を広げた神々しい姿の恭子は、その歌声を龍王池に向けて響かせている。そして、恭子の背後には、白い波しぶきを上げたまま、静かに動きを止めている青い海が広がっていた。

数分後、恭子が歌い終わると、周辺の風景は再び一斉にその動きを始めたのである。

「あれって、何だったんだ?時間が・・・、止まったのか?」

そう呟きながら洋介は、恭子のほうへ、ゆっくりとした足取りで近づいた。

「北山さん、大丈夫?」

洋介の問いかけに恭子は、しばらく何かを見つめたまま、動かない状態であったが、やがて正気を取り戻したように洋介と視線を合わせた。

「うん。大丈夫よ。この辺には誰もいなかったから、少し発声の練習をしようと思って、海に向かって、いつものルーティーン・メニューで喉のウォーミングアップをしてたの。すると急に耳元で『あなたの好きな曲を歌って』という女性の声が聞こえて・・・、アメイジング・グレイスを歌ったのよ」

「耳元で、女性の声が?」

洋介がそう聞くと、恭子は、その声が聞こえた後、振り返って池のほうを見ると、目の前に龍神さまの姿が現れたことを話した。

「それって・・・、たぶん、龍王池に棲む女性の龍神さまだと思う」

洋介は、真顔でそう言った。

「それにしても、北山さんの声って、神がかって聴こえたよ。今まで聴いたことのない、素晴らしい歌声だった」

「週に一回だけど、松山市内にいる声楽家のところでレッスンを受けていてね、そこで覚えた歌なの。タイトルの意味は『すばらしき神の恩寵』。神はどんなに罪深い人にも赦しを与えることを歌ってるのよ」

そう言って、ヘアーピンで結い上げた黒髪をほどき、手櫛でそれを整えながら微笑む恭子の姿は、なぜか女神のように見える。

この時、洋介は、メロディーの素晴らしさに加えて、歌に込められた崇高な意味を知ったことで、感動のあまり何も言えないまま、恭子の顔をただ見つめていた。

第12話へ続く。


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