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#89お肉屋さん。

二月にぐうぜん見つけた小さなお肉屋さん(精肉店)は、家から自転車で20分ほどのところにあります。「もつ煮」と書かれた山吹色の旗が、店先で風にゆらゆらゆれているのが目印です。地元に根ざしたお店らしく、夕方はお客さんが店の前にあふれていることもあります。

(良かった。こんなお店が見つかって)

スーパーと農協以外に、贔屓にしているお店のないわたしには、時々買い物に行くのが楽しみな大切なお店です。

お目当ての品物はフライです。アジフライにメンチカツ、ハムカツ、コロッケなどの揚げ物が、ガラスケースにずらりと並んでいます。ビックサイズでお手頃価格なのがたまりません。たっぷりの油でカリッと揚げられた黄金色をしたフライは、一度買うとやみつきになります。

お店は60代とおぼしきご夫婦が営まれています。ご主人はいつも白いキャップ帽とコックコートのような作業着を着ておられます。作業着のお腹のあたりには、汚れがこびりついていて、それは汚い感じではなく、わたしの目には働き者の印であるように映ります。

フライとは別の、生もの用のケースには、牛肉、豚肉、鶏肉が三列に分けられ、きれいに並べられています。お肉は赤く、生々しい。そして新鮮そう。これらのお肉を毎日仕入れて、店頭に並べておられるのかと思うと、どんな気持ちでこの仕事を何十年と続けてこられたのだろうかと、想像をふくらませてしまいます。なぜかスーパーでトレイに小分けにされたお肉を買い求める時には考えもしないようなことが、頭に浮かんでくるのです。

お肉やフライを注文して包んでもらってから、お金を払います。
「ありがとうございます」
代金と引き換えに品物を手渡してくれる、水仕事で赤くなったおじさんの手を見て、ふと顔をあげると、おじさんの目がなんとキラめいていることか。

(あなたはお肉屋さんでしょう?毎日こんなに生々しいものを扱っていながら、どうしてこんなにも穏やかな表情で…)

そこでハッとしました。おじさんはわたしたち人間が生き物であること、他の動物の生命をいただかなければ生きていけないことを、日々受け止めながら仕事を続けてこられたのではないだろうかと。

ずいぶん昔に、『ブタがいた教室』という映画をみたことがあります。6年2組の子どもたちが、最後に自分たちでその肉を食べることを目的に、子ブタのPちゃんを飼い始めるのですが、みんなでお世話を続けるうちに、Pちゃんへの愛情が芽生えていきます。いつしかペットのような大切な存在になってしまったPちゃんを、卒業の前に食べるのか、それとも下級生たちにPちゃんのお世話をバトンタッチするのか。子どもたちはそれぞれが本気で、生命の責任について考えます。「Pちゃんは仲間だから食べられない」という子もいれば、「ふつうの肉は食べるのにPちゃんだけは食べないなんておかしい」という意見も出て、泣きながら議論を交わし、最後はPちゃんを食用センターに引き渡すという決断をくだすのです。

映画をみた時、自分も一人の人間として、生き物である豚や牛のいのちを食べているのだという事実を、真正面から突きつけられた気持ちになったことを記憶しています。Pちゃんの話は映画の中の作り話ではありません。わたしたちの日常の延長線上にある物語だったのです。

おじさんに「ありがとう」と品物を手渡された時、わたしはその響きの中に、上手く言葉にできない何かを受け取った感じがしたのです。あれは何だったのかなあ。帰り道、自転車を漕ぎながらぼんやりと考え続けました。

(お肉屋さんは、わたしがふだん、なるべく直視しないようにしてきた現実から目を逸らさずに、ありのままを受け入れて仕事をされているのではないだろうか)

あの「ありがとう」は一体だれに向けて発せられた言葉だったのか。おじさんの無意識の中にある、生命に対する思いが、あの言葉の中に含まれていたのかもしれない…。わたしの妄想は果てしなく続いていきます。妄想をうごかすような目に見えない何かを、わたしはその場で受け取ったのではないでしょうか。

これからもわたしは、月に何度かあのお肉屋さんに足を運び続けることでしょう。その時「美味しい揚げ物が手に入って良かったわあ」という満足感だけでなく、生命をいただいて生きている自分をしずかに内省する時間も、いただいてこようと思うのです。




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