056.何度でも思い出すから
雨なので音楽を聞いたり、本を読んで過ごす。
雨だからかな、宇多田ヒカルさんの曲について思いを馳せる。
『真夏の通り雨』
この曲、音を切り離してはなかなか語り難いのだけれど。
言葉が否定と肯定の間を、印象的に行ったり来たりして、
ほとんど終わり近くになって、ようやく前触れもなく
思いを抑えて曲のタイトルが歌われる。
「降り止まぬ 真夏の通り雨」
そうか…、止まないのか…通り雨は…。
何度聞いても初めてのときと同じように、またそう思う。
宇多田ヒカルの言葉 / 小田和正 寄稿文より
この小田和正さんの寄稿文が、静かに確かに胸に染み入ってくる。
忘れられない一文なのである。
言葉を扱うアーティストの宇多田ヒカルさんへのリスペクトを感じて、リスナーとしては、ありがとうとしか言えないくらいグッとくる。
***
大切な人を喪失した歌と解説されることが多い曲である。
彼女自身も「歌詞に出てくる『あなた』は誰ですか?」の質問に「私にとっては母です」と答えている。
通り雨は止むものであるはずなのに、「降り止まぬ 真夏の通り雨」と歌う彼女。
心に降り続く雨は、いつ止むのであろうか。
それは誰も知らない。
雨を望んでいるのか、止ませたいと願っているのか。
それは誰も知らない。
聞き手はただ、彼女が歌うたびに降り止まぬ真夏の通り雨を感じる。
そして会えなくなった大切な人を思う。
思い出すことは、幸せなことなのかな。
その問いに答えはないけど、忘れられないなら忘れなくていいし、忘れたいなら忘れていいし。
結局は思い出してしまうから、と乱暴に思う。
「降り止まぬ 真夏の通り雨」
そうか…、止まないのか…通り雨は…。
そこに思いを馳せて涙が止まらないのは聞き手の自由。
そこに雨を感じて今日も静かに誰かを思う。
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