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【掌編小説】白い憧憬

高く暗い天井から、規則的な間隔で差し込む四角い光が、資料館のエントランスホールに置かれた石膏像たちを、神秘的に浮かび上がらせていた。サモトラケのニケ、ミロのヴィーナス、円盤投げ、奴隷、ヘルメス。全て全身像で、それ自体は高さ2メートル前後なのだが、台座を含めると3メートルを大きく超えるものもある。

特に、僕はヘルメスが好きだ。程よく隆起した筋肉、緩やかにカーブしたフォルム、絶妙な角度で傾けた頭部が作る陰影。箱椅子に座って見上げているこのドラマティックな姿は、何とも言えない美しさを放っている。

建物の構造上、天井から届く自然光を生かそうとしているせいか、エントランスホールの照明はそれほど明るくない。所々大きめの電球がついているだけだ。少し振り返ると、入り口にある自動ドアのガラスの向こうを、絵具で汚れたつなぎの学生達が歩いている。日に当たった芝生の黄緑がとても鮮やかで、自動ドアの正方形の枠が、黒い額縁に見えなくもない。

細長い箱から、真新しい木炭を取り出し、芯抜きで芯を抜いた。そして、床に置いた紙やすりに木炭の先を斜めに当て、何度か擦りつけると黒い粉が湧き出した。斜めに尖った木炭の先端を口の前に持っていき、ふっと息を吹きかける。目の前に、ぱっと黒い煙が広がり、すぐに消えた。

二階の図書室に続く階段を降りる足音が、天井まで響いて、打ちっぱなしのコンクリート壁から見覚えのある姿が現れた。彼は、僕の後ろをゆっくり通り過ぎ、一際目立って高い台座の上に立つニケ像の前で、見上げている。僕は、極力自然に振舞いながら、気付かれないようチラチラと彼の横顔を見た。天井から差し込む光をニケ像の白が反射し、端正な彼の顔を柔らかく照らしている。清潔な美しさと野性を感じさせる少し筋張った首元。僕は平静を装い、目の前にある紙の上で木炭を走らせた。

太陽が雲に隠れたせいか、石膏像が、青みを帯びた白から、電球色の黄色味を帯びた白に変化した。陰影も、さっきほど気持ちが昂るものではなくなっている。エントランスホール全体が、うっすら橙色に染まった。

彼はまだ、ニケ像の前にいる。チノパン風のカーキ色の作業ズボンは、太ももから膝にかけて黒く薄汚れており、お尻のポケットからは、濃紺のタオルがぶら下がっている。白いTシャツの袖から伸びる、筋肉質で浅黒く日焼けした腕は、電球の橙色に染まった為に赤銅色に見え、より一層逞しさを際立たせていた。

僕は、箱椅子から立ち上がり、二階へ続く階段を上り始めた。エントランスホールは吹き抜けになっているので、階段の踊り場から石膏像に囲まれた彼の姿を見下ろすことができる。高い天井と大きな石膏像たちのせいで、彼が小さく見えるのだが、体重を右足にかけ、やや頭を左に傾げ見上げている姿は、石膏像の美しさに負けてはいなかった。

急に周囲が明るくなり、石膏像の細かなディテールの陰影がくっきり現れた。太陽が雲から顔を出したようだ。先程以上に、石膏像の白が、より白になり、床に長く影が伸びている。見上げると、天窓から斜めに差し込む四本の光の柱。エントランスホールの中央に立つ彼が、偉大で強大な存在に見える荘厳な光景だ。すると、彼が自動ドアに向かって静かに歩き出した。その後ろ姿を、僕は目で追った。

彼の姿が見えなくなると、僕は階段を下り、ヘルメス像の前に置きっぱなしにしていた箱椅子に再び座った。イーゼルに立てかけたカルトンに、クリップで留めた木炭紙の上を、ガーゼで擦ったり、木炭で描いたり、その上を手のひらで押さえたりしながら、陰影のコントラストを強くした。

ヘルメス像と目が合った。優しく微笑んでいるようにも、憐れんでいるようにも見える。視線をそらし、紙の中ですっと立っているヘルメスの耳にそっと触れた。そして首・胸・腹と、中指でゆっくりなぞると、ヘルメスの肉体にうっすら黒い筋ができた。じっと画面を見つめる。僕は道具を片付け始めた。

資料館の自動ドアを通り抜け、アトリエ方面に歩く。「コン!コン!」という乾いた音が、ゆったりとしたリズムで何度も響いている。音のほうに目をやると、大きな丸太にまたがり、ノミと金槌で何かを彫刻している彼の姿が少し遠くに見えた。こちらに気付く様子は無く、ひたすら形を削り出している。この距離からでも分かる、繰り返し動く腕の筋肉に、胸がドクンと大きく鳴った。

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