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読書というものは…

先日、ステキな記事を拝読しました。

喜木凛さんの

「読めなくなった私が書く理由。」です。


上記の記事では、
喜木凛さんがご自身の病気をとおして
読書についての考察をお話しされています。

今回は、喜木凛さんの記事を読んで感じた
わたしの感想を皆さんと共有させてください。


「読むとは、何か」
「書くとは、何か」

文章を楽しむ、伝える人にとって
ぜひとも理解してほしい内容ですので
必読いただけると嬉しいです。

では、いってみましょう(^^♪



✔読めなくなって
 気づいたこと

喜木凛さんのタイトルにあるとおり
「読めなくなった」と書かれていますので
誤解を招かないように前説させていただくと
けして失明ではありません。

失明ではなく「総合失調症」という病気です。

喜木凛さんは大学生の頃、
「総合失調症」と診断されました。

同時に、
「活字が読めない=内容が入ってこない」
といった症状になりました。


読書の虫として過ごされていた喜木凛さんにとって
活字を楽しめないのはツライと語っています。

そして、はじめて
読書とは、みずからが選び読み進めること。

「能動的な行動そのものだと気づいた」と
語っています。

ああ、読書って単なる受け身では無いんだ!
読むって能動的な活動なんだと。

喜木凛さんの記事より引用


つまり、読書とは
すべては読者側に理解をゆだねられること。

あくまで、主体は読者側。

作者側は主張する権利はあっても
どう理解し、行動してもらうかは読者次第。


たとえば、
素晴らしい文章、魅力的な構成、
想像力あふれる言葉であっても
読者に文章を読み解くチカラがなければ
なにも伝わらず、読者の心には残りません。

読者側にも、それ相応に
文章を理解する能力が求められるのです。


そうした読者側にゆだねる「読書の行動」そのものを
喜木凛さんは”活字の限界”とおっしゃっています。

何か、活字の限界を知ってしまった気がするんです。

いくら、素敵な文章でも、読み手の力が必要なのです。

音楽ならスっとこころに入ってきたり、
映像では見る気がなくても引き寄せられたり、
そんなパワーが活字には無いかもしれません。

喜木凛さんの記事より引用



✔書く理由

「自分の伝えたいものが伝わらない」
「読者によって理解が変わってしまう」
「自分の理想通りに読んでもらえない」

読書とは、読者側の能動的な行動によって
成立するならば、書く側の意思とは…

読者側に理解をゆだねる状態で
書く側は「何を書けばいいの」と
自問が止まりません。


喜木凛さんは、
とてもシンプルな答えを提示されました。

伝えたい方には伝わるから

喜木凛さんの記事より引用


わたしは上記の言葉で書く側として、
とても救われる想いを抱きました。

「自由に書いていいんだ」
「書く楽しさを味わっていいんだ」
「伝わる人には伝わるんだ」


読書とは、
どこまでいっても読者側の理解を求められますが
それでも書く側は伝え続ければいい。

伝えたい人へ届くまで、伝え続ければいい。

それは、読者側にはない
書く側にとっての唯一のアイデンティティだと
強く確信しました。

だからこそ、書くことは楽しい。

書く側にとっての特権をフル活用すべきだと
わたしは思うんです。

少なくとも、わたしは
喜木凛さんの伝えたい言葉、想いを
受け止めている気分でいます♬



* * * * *




わたし自身の体験談です。

先月、7月はネット回線のつながりの悪さで
noteを思うように楽しめませんでした。

書くほうも読むほうも
ページの更新にとまどい、
とても楽しめる状況にありませんでした。

いまは回線問題は解消したので
スムーズにnoteを利用できています。

そのときの悪い環境の反動なのか、
いまは「書く、読む」の楽しさが倍増しています。

自由に書けること。
読みたいものを読めること。

文章にふれる楽しさを再確認して
ウキウキで過ごしております😊

そして、noteという場が
「いかに表現する場としてすぐれている」点も
十分に理解できました。


喜木凛さんの記事をとおして
わたしは今後も”表現の場”に立ち続けます。

伝えたい人に伝わるまで。

わたしの表現は終わりません。



では、また。
失礼します。

喜木凛さん、
ステキな記事を投稿いただき
ありがとうございます✨

サポートしていただければ、あなたの習慣活動を全力で応援します!!