何かを選ぶということは何かを失うということ(エッセイ)

自分は「選んでいない」と思いつつも「選んでいる」。

私は「選ばない」という選択をしてきているようで実は「選んでいる」のだ。

そうして選んだ対価が現実に起こってしまっている。

誰かのせいにしたい。

私の人生が悪いのは、あの人のせいだ。

あの人が、あの時、ああしたから、ああなってしまったんだ!

……と、思いたくなることがある。

しかし、そう思っていたことで現実が変わるわけではない。

私は今、過去のおこないの対価を払っているところなのだ。

そうだとしても、その選ぶ行為……言い換えれば「努力」という表現になるだろうが、努力していたとしても絶対に何か特質な存在になれるわけでもない。

人間の大半が凡人なのだ。

その中で選択肢を見つけるしかない。

特別な才能があれば、どんな問題の何もかもが解決できるわけでもない。

この世界は、すべての問題が、すぐに解決できるような、優しい設計で、できた世界ではない。

今の現実は、膨張していた過去から、収縮していく未来への間の時間に過ぎない。

人口減少が加速し、いつかのいずれに滅ぶ始まりの時代になっているような感覚を私は持っている。

そんな時代なのである。

だから、何かのせいにするな! とは、断言できない。

気合だ! 気合が足りない! とも言えない。

しかし、そんな世界でも生きている私たちは、すごいと思う。

それだけで十分ではないだろうか。

……ちょっとタイトルからズレ始めているので軌道修正。

結局、人間は、どこか特別になりたいものなのかもしれない。

選べる選択肢の中で、すべてを選ばないで何もしないことを大半の人間は選んでいるような気もする。

……具体的な例を出していないので、ふわっとした表現を今しているのだが、具体的に例を出してしまうと、あまり良い表現ができないので例を出さないが、まぁ、このネット社会のせいで選べる選択肢が増えてしまったのが、そもそもの原因なのではないだろうか。

まぁ、大人になっているであろう私たちは、大人になった責任を持たなきゃいけないわけで。

いつまでも子供では、いられないよなぁ、と、最近、思うのです。

だから、どこかで妥協しないと最後まで選択肢を失ったままだよ、ということを私は言いたいのかもしれない。

時間は何もしなくても流れていくからね。

今という選択肢の中で、選んで生きて逝こう。

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