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よりさりげなく、より軽く。


ミトンとふびん/吉本ばなな

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たいせつなひとの死、癒えることのない喪失を抱えて、生きていく――。凍てつくヘルシンキの街で、歴史の重みをたたえた石畳のローマで、南国の緑濃く甘い風吹く台北で。今日もこうしてまわりつづける地球の上でめぐりゆく出会いと、ちいさな光に照らされた人生のよろこびにあたたかく包まれる全6編からなる短篇集。(新潮社HPより)

私はごく近しい人を、この年齢にしては沢山亡くしている方だと思う。両親ともすでに他界しているし、妹2人、祖父や祖母や叔母も私が大人になるまでは一緒に暮らしていた。ただ、亡くなった当時一緒に暮らしていたのは上の妹だけで、しかもそれは私もまだ幼かった(3歳)のであまり記憶にない。寝ている(横たわったいる)妹を囲んで大人たちが泣いていた光景だけは覚えている。


両親も下の妹も、私が結婚してから亡くなっているので、毎日顔を合わせていた人が急にいなくなる、というのとはちょっと違う。特に妹は長くアメリカに住んでいて、会うのは何年かに一度とかで、だから、今もまだアメリカの何処かに元気で暮らしているかも?と思ってしまったとしても不思議ではない。亡くなった人を思い出すのは、例えば亡くなってしばらくの間は毎日悲しみの中で生活していたとしても、日が経つにつれ、それは血のつながりとか親密度とかどれくらい愛していたかとか、そういうこととは関係なく、やっぱり徐々に思い出す時間というか悲しみを感じる時間というか、それはだんだん短く、まばらになっていく。それは決して、忘れていくというのではなく、残された者が受け入れ納得していくという感じだと思うのだ。

過ぎていってくれるというだけで、何かが勝手に回復していく。

私にとって一番最近の身近な人の死は、実母だ。我が家から車で30分くらいの場所で一人暮らしをしていた母。会おうと思えば毎日だって会える距離だった。でも、そうは出来なかった。私にも家族があり、家事があり、仕事もあった。それでも、買い物に行けば、母が喜びそうな物に目がいったり、家族旅行をしたら必ず母にもお土産を買って帰る。母が亡くなって、ふと、「ああそうか。もう何も買ってこなくていいんだ」と気づく瞬間。


お正月になると、その感覚が強まる。母が亡くなって、母が暮らしていた家を片付けた。だからもう私には、お正月に里帰りする家が無い。車で30分、いつでも行ける距離でもお正月とお盆はやっぱり特別で、家族揃って行くのが習慣だった。だから母が亡くなってからのお正月はなんだか手持ち無沙汰で、行く所もする事もないお正月は特別感が薄れた。

失くしてみるとよくわかる、それが家族がいるという幸せの本質なのだ。

母が亡くなってから、ドラマの台詞や広告の一説に勝手に母からのメッセージを受け取っていた。きっと母は、私にコレを伝えたかったのではないか、と。いつもなら聞き流してしまうのに、妙に心を捉えてくる。そんなのは偶然だし、偶々だし、母が本当に発信しているわけじゃないし、そんなことはわかっていても、意味付けをしたくなる。

心が弱っているとき唯一のいいことは、こうしたことによく気づけるということだ。
偶然とは思えない計らいは私の動きが間違ってない証拠だという感じがした。

だけど私は今、特に悲しみに包まれているわけでもないし、ものすごい努力をして悲しみを乗り越えたわけでもない。大切な人を亡くしたからと、いつまでも暗く悲しい顔をして生きていくなんて出来ないのだから。身近な死を経験したからといって、明るく生きて何が悪いというのだ?この本を読んだらそんなふうに思えて、短編なのにそこここに出てくる言葉がいろんな方向から私の心に寄り添ってくる。両親のことを思って、妹たちのことを思って、でも、私は今幸せで、そのことに気兼ねしたり申し訳なく思う必要もないんだよねって。そうして心が軽くなって、私は癒されたのだ。



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