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承認のディストピアからの自己救済:映画「JOKER」によせて

己の傷つきや無力さに否応なく直面させられたとき、その場を笑ってやり過ごすという術しか持ち合わせないまま、承認の輪のなかから排斥されつづけること。そんな圧倒的孤独の果てに主人公がたどり着いた境地は、この悲惨を背負って生きていることそれ自体が「喜劇」である、というものだった。

映画「JOKER」では、他者からの承認を求め続けては裏切られ、笑い者にされ、そんな自分自身を笑うことでしか社会のなかに自らを定位できなかった不器用な一人の男が、ある契機を境に猟奇的殺人を繰り返し、自ら「JOKER」と名乗り、大衆暴動の扇動者となるプロセスが描かれている。

アーサーというその男は、「場にそぐわない状況で、突然笑いの発作が起きてしまう」という「精神症状」をもつ治療対象者とみなされていた。その「症状」により人から蔑まれ、嘲笑されるアーサーは、それゆえにこそ「人を笑わせる」存在として承認されることに自らの救いを見出そうとする。しかし、自らの存在価値をたしかめようとするもがきの中でアーサーが語る期待や願望に真摯に耳を傾ける者は、彼の周囲には現れなかった。自らの出自をめぐる秘められた事実に打ちのめされ、最後にアーサーが承認による救いを求めてすがろうとしたその相手からも、あっけなく突き放された。

アーサーにとって、社会が相互承認によって成立しているシステムであることは、端的にいってディストピアでしかなかった。彼が銃の引き金を引くとき、それは承認によって成立する世界に囚われた自己を解放し、自らによって救済する行為でもあったように思われる。結局のところ、自己の魂を救うのは自分しかいないのだ。クライマックスが近づくにつれ、アーサーは自らの行為によってつかみとった確信を胸に抱き、あらゆる法規範からも自由になって堂々たる立ち居振る舞いを見せるようになっていく。その姿は、人間らしく生きるという以前の、生命そのものの奔放さに立ち返ったかのようでもある。彼の行為が残虐きわまりないにもかかわらず、彼の醸し出す解放感に理屈抜きで共振し、爽快感すら覚えた観客は私だけであろうか。

逆説的であるが、アーサーはひたすら他者からの承認を求めることを断念し、承認の世界の秩序を破壊することをとおして、ついには憤懣やるかたない思いをマグマのように抱えながら生きる大衆の絶対的代弁者として承認を得るに至る。かくして、アーサーの「JOKER」としての蜂起もまた、承認の物語に回収されていく。これが、ディストピアのディストピアたる所以であろうか。

ラストシーン、一面が白に覆われた閉鎖病棟の一室で、白衣に身を包み、手錠をかけられたアーサーが乾いた笑いの発作を起こす。笑いの理由を問うセラピストに「ジョークを思いついて」「理解できないさ」と切り返すアーサーの姿に、観客はこれまで見せつけられた一人の男の壮絶なライフストーリーの別様の解釈の可能性を提示される。アーサーが殺戮の果てに重度の精神病者として閉鎖病棟に収容されたのではなく、社会のなかで居場所を失った一人の男が「JOKER」として自己救済を果たし大衆からの承認を得るという逆説的「喜劇」それ自体が、閉鎖病棟被収容者アーサーの脳内で仕立て上げられた「ジョーク」であったのかもしれない、と。

この「喜劇」がアーサーのライフストーリーそのものであったのか、あるいはアーサーの脳内で創作された妄想であったのか、正しい解釈を論じることに大した意味はない。この一人の男の悲惨が「喜劇」たりうるのは、人間が「人間らしく生きたい」と欲するかぎり、他者からの承認を求めざるを得ず、それゆえに同じような失敗を繰り返し、勝手に他者に期待しては傷ついていく存在としてしか生きられないという、人間存在そのものの不自由さと不器用さを体現して見せてくれる「ピエロ」だからではなかろうか。

(2019年10月6日 筆)

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