短編創作「無題」

 近所の公園のベンチで昼下がりを過ごすのが、いつしかわたしの日課になっていた。何をするでもなく、ただぼんやりと、雲の流れとか、ボール遊びをする子供たちとか、ジョギングをする高齢の夫婦とか、池の鴨が獲物をついばむ姿なんかを眺めている。決まっていつも、池に沿った遊歩道に等間隔で並ぶベンチの一つに座る。眺めが特別いいとかそういうわけではなくて、大した理由はない。あえて理由をつけるなら、等間隔に配置されたこの場所から見る景色が、世界の基準点になっている気がするからかもしれない。
 その日、わたしがベンチを訪れると、使い捨てカメラが残されていた。
 誰かが置き忘れていったものだろうか。手に取って見てみる。最後に触ったのは何年前だろう。わたしがまだ小学校低学年の頃、父の持っていたのを触った気がする。懐かしみながら思わず丁寧に眺めてしまう。カウンターの枚数は残り三枚だった。
 ベンチに腰を下ろす。誰かの忘れ物を拾っただけで、なんだか緊張気味な自分がいた。知らない誰かに髪を撫でつけられたような、微かに迫る感覚があった。それが罪悪感からくるものなのか、それとも別の場所にある感情からくるものなのか、はっきりとはしない。
 しばらくそのまま何もせず、ぼんやりと公園の景色を眺めていた。ここに来る際はいつも時計をつけてこない。ここからだと公園に設置された時計も見えない。だから、今が何時何分といった情報は、わたしには届かない。時間という概念からほんの少し離れた場所にいられることが、心地よかった。
 ふと、先ほど拾ったカメラに視線を落とす。そして、おもむろにカメラを構えた。
 ゆっくりとシャッターを切る。
 乾いた音がした。マッチの火がつく音に似ている。それは周辺の雑音をすり抜けて、耳の奥にすっと入り込む。胸の奥がざわつく。シャッター越しにどんな景色が納められたのか、わたしには見当もつかない。着ていたカーディガンのポケットにカメラを入れる。相変わらずどこか気持ちは落ち着かないけれど、今の自分はそれとは関係のないところにいる、ということにしておいた。
 フィルムの残数が二枚になった。

 

 彼が出て行ったのは丁度二か月前だ。
 別に、誰かと別れるのはこれが初めてではないし、これまでにも経験はある。
 でも、今回は少し違っていて、ずっと引っ掛かるものを抱えていた。すっきりしない晴れ模様みたいな気持ちが立ち込めて、日々が過ぎるごとに心の深いところに浸透した。今ではもう落ちないシミになってしまって、どうにもならない。それなのに、捨てられずにその気持ちを大事に抱え込んでいる自分がいた。
 二人で生活を続けてきた部屋も、明後日には手放す予定だ。わたしの分だけの貯金では二人分の家賃がかかるこの部屋で、これからも暮らし続けるのは困難だと思った。それに、実家の両親から帰ってくるようにと言われたのが大きい。ここに残る理由もないわたしにとって、迷う必要はなかった。
 手当たり次第に物を抜き出してしまった部屋は、抜け殻そのものだった。あんなに狭かった部屋が途端にだだっ広く感じられて、やけに白く見える壁や、本棚が消えて大きくなった窓枠が、わたしを不安にさせる。
 明け方、わたしは目を覚ました。
 カーテンが取り付けられていない曇りガラスの窓の向こうに、薄っすらと群青色が浮かび上がっている。わたしは包まっていた毛布から出て、窓を開けた。家々の屋根と、電線と、鉄塔と、白と青の混じったとりとめのない朝が広がる。遠くで電車の走る音がする。春先のまだ冷たい風が頬を撫でて、髪がなびいた。わたしは、昨日公園で拾ったカメラを思い出した。
 紙袋にまとめられていた衣類の中からカーディガンを引っ張り出して、カメラを手に取る。巻き撮りレバーを巻く音が何もない部屋に響く。しっかりと巻いてから、わたしはカメラを構えた。シャッターを切る乾いた音は、ついに消えてしまった電球の光を連想させた。
 フィルムの残数が一枚になった。

 

 荷物はすべて引っ越し業者が持って行った。手に持てるだけの荷物は鞄に詰めた。あとは、空っぽのこの部屋からわたし自身を連れ出すだけだった。
 一歩部屋の外へ出て、振り返る。暗い部屋の奥をしばらく見つめる。開け放たれた扉からゆっくりと手を離すと、視界に映る光景は段々と狭まって、そして、白い扉の表面が見えるだけになった。
 鍵穴に鍵を差し込む。宝箱の蓋を施錠するように、わたしは慎重に鍵を回した。鍵はアパートのポストの中に入れておいた。
 それから数時間後、わたしは駅の中にあるチェーンの喫茶店にいた。窓際のテーブル席に座ってレモンティーを口に含み、広い改札前を行き交う雑踏を眺めながら、ここを発つ電車が来る時間を待つ。
 何かを思い悩むふりをしながら、実は何も考えていない素振りを見せるように、必死に雑踏の中に紛れる顔を一人ずつ確かめていた。スーツや学生服など同じような容姿をしている人たちばかりで、そのせいか顔も似通って見える。今ここにいる自分も、他人からは不特定多数の一部にしか過ぎない。そう考えると、わたしがわたしである理由とか、必要な誰かがその人でなければいけない意味なんて、本当にありはしないのだと、そんな風なことを思った。
 だからわたしは、無意識にこの雑踏の中で彼を探している。そして、見つからないことを密かに願っていた。あの人がわたしにとって必要ではなかったと、唯一の存在ではないのだと確かめたかった。
 ばかばかしい。
 自分でも呆れてしまう。
 ここは公園のベンチとは違う。世界はわたしの価値観だけで選び取ることできるほど甘くはない。
 不意に、拾ったカメラのことを思い出した。
 鞄の中からそれを取り出し、フィルムの残数を改めて確認する。一枚しか残されていないフィルムに、どこか感傷的な気持ちになる。それでも、わたしはレバーを巻いて、カメラを窓の外に向けて構えた。
 ためらいがちの指先に全身の体重をすべてかけるようにして、レンズ越しに雑踏を見据える。合わせるべき焦点などない人の群れを見回す。忙しなく流れる光景に目が眩んだ。そして、はっと息を呑む。
 一瞬、あの人を見た、気がした。
 その瞬間、添えていた指先に力を込めてしまう。シャッターを切る音は、マッチの火が消えた後の残り香みたいな細長い余韻を垂れ流す。
 わたしは、カメラをテーブルの上にそっと置いた。
 短い息を吐く。氷が溶けてもう水っぽくなってしまったレモンティーを口に含む。味のしないレモンティーは、今のわたしの心そのものだった。
 時間になり、店を出る。電車に乗り込み、座席に腰を下ろす。ベルが鳴って、静かに電車が走り始める。窓の外で静止していた景色がゆっくりと動き出して、もともと止まっている物も動いている人も、すべてが視界を横切って一つずついなくなる。やがて電車はホームを抜けて街並みを映し出した。彼と二人で過ごした街が、次々と視界の端へと過ぎ去っていく。
 もうこの街に戻ってくることはないだろう。
 でも、忘れ物はしていないはずだ。
 わたしの鞄は、ついさっきよりも軽くなっていた。

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