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温故知新(37)神武天皇 委奴(伊都)国王 神武天皇社 橿原宮 橿原神宮 聖ミカエルの山 綏靖天皇 懿徳天皇 帥升

 和珥氏の古墳と推定される雨の宮古墳群神武天皇社(奈良県御所市柏原)を結ぶラインは白山比咩神社沖の白石天王山古墳(野洲市)、和珥氏の本拠地である天理市の東大寺山古墳の近くを通ります(図1)。天王山古墳は、6世紀初頭頃の前方後円墳で、ラインに沿って神武天皇社の方向を向いているようなので、和珥氏の古墳と思われます。神武天皇社の祭神は「神倭伊波礼毘古命」で、初代神武天皇の即位した場所であると言われています。『古事記』神武天皇段には「畝火の白檮原(かしはら)宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とあり、享保21年(1736年)の『大和誌』には「橿原宮。柏原村に在り」と記されているようです。

図1 雨の宮古墳群と神武天皇社(奈良県御所市柏原)を結ぶラインと白山比咩神社、沖の白石、東大寺山古墳、天王山古墳

 御所市柏原にある神武天皇社と素鷲社を結ぶラインの近くには、百舌鳥耳原南陵天王山古墳群斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町)、貴船神社(船林社 雲南市加茂町)があります(図2)。

図2 神武天皇社(奈良県御所市柏原)と素鷲社を結ぶラインと百舌鳥耳原南陵、天王山古墳群、斑鳩寺、貴船神社(船林社)

 図1と図2のラインを二辺とする三角形を描くと、素鷲社と雨の宮古墳群を結ぶラインは、神武天皇社と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、神武天皇社と聖ミカエルの山を結ぶラインは、物部神社(与謝野町)の近くを通ります(図3)。

図3 神武天皇社、素鷲社、雨の宮古墳群を結ぶラインと沖の白石、神武天皇社と聖ミカエルの山を結ぶラインと物部神社(与謝野町)

 神武天皇社と素鷲社を結ぶラインの延長線付近には、サウジアラビアのヤンブ アル バハル(ヤンブー)があります(図4)。ヤンブーの歴史は2,500年前までさかのぼれ、イエメンと、エジプトをはじめとする地中海世界との、スパイスや香料の中継貿易港として栄えてきました。

図4 神武天皇社とヤンブ アル バハル(ヤンブー)を結ぶラインと素鷲社

 神武天皇社は、伊吹山須賀神社(和歌山県日高郡みなべ町)を結ぶライン上にあり、このラインの近くには、石上神宮(天理市)、大和神社(天理市)、高野山奥之院があります(図5)。また、同じラインの近くには、畝傍山神武天皇 畝傍山東北陵綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵があります(図6)。このことから、奈良県御所市柏原の神武天皇社に初代神武天皇の橿原宮(かしはらのみや)があったと推定されます(参考:本当の橿原宮はどこ)。

図5 伊吹山と須賀神社を結ぶラインと石上神宮、大和神社、神武天皇社、高野山奥之院
図6 図5のラインと綏靖天皇桃花鳥田丘上陵、神武天皇畝傍山東北陵、畝傍山、橿原神宮、長山稲荷社

 橿原神宮は、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)に官幣大社として創建され、桓武天皇、孝明天皇を祀る平安神宮明治天皇 伏見桃山陵とほぼ同じ経度にあります1)。明治天皇の墓所が京都に営まれたのは遺言によるものといわれています。また、橿原神宮の地には、以前から祀られていた長山稲荷社があります。神武天皇陵は、江戸時代の1863年に、現在の地、字「ミサンザイ」(「神武田(じぶた)」ともいう)に治定変えとなり、明治時代に整備されました。

 綏靖天皇陵と神武天皇社を結ぶラインの近くにミサンザイ古墳神武天皇畝傍山東北陵)、畝傍山、懿徳天皇陵があります(図7)。懿徳天皇陵は、『古事記』では「畝火山の真名子谷の上」の所在とあり、俗称「マナゴ山」に治定されています。第4代懿徳天皇は『後漢書』東夷伝にある107年に朝貢した「帥升」と推定されますが、懿徳天皇陵は、綏靖天皇陵、神武天皇陵、神武天皇社と関係付けられていることから、これらは実際に天皇の陵墓と思われます。

図7 綏靖天皇陵と神武天皇社を結ぶラインとミサンザイ古墳(神武天皇畝傍山東北陵)、畝傍山、懿徳天皇陵

 山本隆司氏は、古事記・日本書紀の記述は、1世代25年とすると考古学資料などに符合すると記しています2)。崇神天皇は、3世紀末の人物と推定され、崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳も、3世紀末に築造されたと推定されているので、第10代崇神天皇の崩御年を290年とすると、神武天皇の推定崩御年は、290-9×25=65年になります。また、第15代応神天皇は390年に即位したと推定されるので、神武天皇の推定崩御年は、390-13×25=65年になります。神武天皇の推定崩御年は、漢委奴国王の「印綬」の57年より後になるので、神武天皇が東遷する前に印綬を受けた可能性が考えられます。神武天皇の崩御年が65年と仮定すると、第7代孝霊天皇の崩御年は、65+6×25=215年となり、娘の倭迹迹日百襲姫命と推定される卑弥呼の没年247年前後より前になり、孝霊天皇の妃の倭国香媛の墓と推定される楯築遺跡が2世紀後半~3世紀前半に造営されたと推定されることと整合します。また、大日孁貴(倭国香媛と推定)が隠れた後を、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命と推定)が引き継いだと推定されることとも整合します。

 皇室に伝わる「三種の神器」の鏡、剣、勾玉は、古代日本では統治者のシンボルとされてきましたが、特に福岡市から糸島市にかけての地域では、鏡、刀、勾玉がセットで出土しています。伊都国の王墓と考えられる平原遺跡は、弥生時代終末期(約1800年前)の古墳で、国宝とされた国内最大の内行花文鏡が見つかっています3)。福岡市東区志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印の「委奴」は「伊都」と推定されることと整合します。

文献
1)安藤 渉 2023 「神の社は何故そこに」 日本橋出版
2)山本隆司 2020 「定説破りの古代日本史」 幻冬舎
3)瀧音能之(監修) 2019 「最新発掘調査でわかった「日本の神話」」 宝島社