見出し画像

温故知新(40)ロドス島 平出遺跡 諏訪大社 ツタンカーメン フルリ サモトラケのニケ 前方後円墳 千手観音

 ロドス島はヨーロッパ、中東、アフリカを結ぶ要衝に当たり、建築的、文化的、言語的に多くの異なる特色をもっていて、島には紀元前4000年頃には人が住んでいたと推測されています。 ロドス島で最大の都市であるロドスの街は、古代から港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つの「ロドス島の巨像」があったことでも知られています。エラトステネスの前にアレクサンドリア図書館の館長だった「ロドスのアポローニオス」は、ロドス島の出身ではありませんが、イアーソーンとアルゴナウタイの航海の物語である『アルゴナウティカ』の作者として知られています。ロドス島の中世都市は、世界遺産に登録されていて、ロドス騎士団のグランドマスターの宮殿などがあります。

 アララト山とロドス島を結ぶラインの近くにチャタル・ヒュユクがあり、スサとつながっているスールとアテネ、エフェソス遺跡とメンフィスを結ぶラインはロドス島を通ります(図1)。ロドス島もサントリーニ島と同様に複数のレイラインの交点にあることから、エーゲ文明の重要な拠点であったと推定されます。スールの位置にかつてあったティルスは、フェニキア人の造った都市国家のなかでも最大級で、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でした。

図1 アララト山とロドス島を結ぶラインとチャタル・ヒュユク、スールとアテネ、エフェソスとメンフィスを結ぶラインとロドス島

 諏訪信仰発祥の地と伝えられる諏訪大社上社 前宮とロドス島と結ぶラインの近くに諏訪大社上社 本宮、平出遺跡 縄文の村、穂高岳があり(図2)、このラインは、三戸大神宮と沖縄市を結ぶラインと重なる沖の白石とヒスイ海岸(富山県下新川郡朝日町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。沖の白石とヒスイ海岸を結ぶラインの近くには洞のカツラ(白山神社)があります。多くのレイラインが平出遺跡を通ることから、平出遺跡は縄文時代の重要な村だったと思われます。

図2 諏訪大社上社 前宮と沖の白石、ヒスイ海岸を結ぶラインと洞のカツラ(白山神社)、諏訪大社上社 前宮とロドス島と結ぶラインと諏訪大社上社 本宮、平出遺跡 縄文の村、穂高岳、

 チャタル・ヒュユクの女神の椅子のひじ掛けにはライオンの頭部がついており、ツタンカーメンの王座に似ています。ツタンカーメンは、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1332年頃 - 紀元前1323年頃)で、スカラベのパワーストーン(リビアングラス)は、隕石衝突によって生成されていたという研究報告があります。また、ツタンカーメンの鉄剣は隕石の鉄で作られていたことがわかっていますが、この鉄剣は、ツタンカーメンの祖父が、メソポタミア北部にあるフルリ人の建てたミタンニ王国から贈られたものであるという記録があり、柄の部分からは「しっくい」が検出されているようです。フルリ人達が建てた国々の中で最も大きく、有力であったのがミタンニ王国でした。

 フルリ人は、紀元前25世紀頃から記録に登場し、北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していました。下記のようにフェニキアの先住民はフルリ人だったのではないかと推測する人もいます。フルリ人は冶金について高い評価を得ていて、シュメール人はフルリ語の中から銅を意味する単語を借用したようです。

Kinahnu(キナフ)はフルリ語で紫染料の地と言う意味です。
フルリ人≒ホリ人≒プル人。
フェニキアの先住民はフルリ人だったのではないかと推測されます。

出典:龍族を探して 物部を探して 饒速日命 ③

 現在知られているフルリ人の根拠地は、アマルナの手紙(紀元前14世紀)に記載されているスバル(Subar)の地です。竹内宿禰は、成務天皇(倭建命)と同世代の人物と推定されますが、正統竹内文書では人類の故郷の星の名前がスバルであるとしているようです。天照大神が身に着ける八坂瓊五百津御統(やさかにのいほつのみすまる)の「すまる」は一つにまとまる意で、多くの玉を緒に貫いたものですが、『日本星名辞典』によると、古来「すまる」とよばれたスバル星は、『古事記』にも登場する「御統」から出ているようです。大日靈貴を祀る天石門別八倉比売神社の奥ノ院に五角形の石積みがありますが、スバルはカペラ(ぎょしゃ座)がつくる大五辺形を従えているので、天照大神(大日孁貴)は五角形と関係があるようです1)。

カペラには、『すばる』の名で有名な、おうし座のプレアデス星団とほぼ並んで見えるので、日本には『スマルノアイテボシ』など、プレアデス星団と対比する和名が各地に伝わっています。道内には、後志地方の積丹町に、サキボシやウヅラノサキボシ(ウヅラはプレアデス星団のこと)という呼び名が伝えられていると『日本の星名辞典』(北尾浩一著・原書房2018年)で紹介しています。

出典:いぶりの☆星空散歩 https://kamokenyamafc.blog.fc2.com/blog-entry-186.html

 奥ノ院の五角形の石積み(図3左)1)や摂社の大泉神社にある「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸の形は、ぎょしゃ座の大五辺形(図3右)の逆像(鏡像)と似ているように思われます。西野雅人氏の『古代上総国府の北斗祭祀』によると、千葉県市原市の稲荷台遺跡にある北斗状に並ぶ古墳(円丘)は、北斗七星の逆像(鏡像)になっているようです。『オリオン・ミステリー』の著者のボーヴァルは、オリオン座の三ツ星とピラミッドが正確に互いの「鏡像」になっていたのは紀元前10,500年ごろと計算しています2)。奥ノ院の五角形も同様に年代が計算できるかもしれません。平城京を中心とするレイラインの五芒星も知られていますが、こちらは陰陽道の五角形と関係があるかもしれません。

図3 左:天石門別八倉比売神社の奥ノ院にある五角形の石積み 出典:「邪馬壱国は阿波だった」 新人物往来社1)
 右:ぎょしゃ座の五角形(右下:カペラ)出典:暦生活https://www.543life.com/moon/post20201201.html

 イシュタルと同一の神だと思われるフルリ人の祀った太陽女神シャウシュカは、ライオンの上に立ち、2人の侍女を連れた有翼の人の形で描かれています。フルリ人がニネヴェを支配していた時代にはシャウシュカの重要な神殿がありました。紀元前25世紀頃から北メソポタミア付近に居住していたフルリ人の円筒印章にはしばしば翼のある人間が描かれているので、余市町にあるフゴッペ洞窟の壁に刻まれた「有翼人」は、イカロスを表したものかもしれませんが、シャウシュカと関係があるかもしれません。

 よく知られている翼のある女神像としては、ルーブル美術館が所蔵しているサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発見された「サモトラケのニケ」があります。この女神像にはパトスの大理石とロドス島のラルトス石(台座)の2種類が使われています。ティルスがあったスールとアテネのパルテノン神殿を結ぶラインは、ロドス島のリンドスの近くを通り、パルテノン神殿とキプロス島のオリンポス山を結ぶラインはロドス島の近くを通ります(図4)。「サモトラケのニケ」の作者は、ロドス島の古代都市リンドスの工房で創作活動をした紀元前3-2世紀の彫刻家ピュトクリトスともいわれています。紀元前2世紀に古代ギリシャで制作されアテネで見つかった、十一面観音像と類似性のあるアフロディーテ像もニケ像と同じような薄い衣をまとっています。もしかすると、アテネのアフロディーテ像とニケ像の作者は同じで、ニケ像も少し左肩が下がっているので、アフロディーテ像と同じように左手に水瓶を持っていたのかもしれません。

図4 スールとパルテノン神殿を結ぶラインとロドス島のリンドス、パルテノン神殿とキプロス島のオリンポス山を結ぶラインとロドス島

 キプロスの「水瓶」(紀元前1000-800年)の上部の形は、箸墓古墳の前方部の形と似ています(図5)。これらに関係があるとすると、箸墓古墳の被葬者と推定される豊玉姫命が、水瓶を持つ十一面観音に見立てられていると推定されることと整合します。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷を形取ったものではないかともいわれ、様々な古墳の形も壺形説を採ればある程度の説明ができるといわれています。 

図5 左:キプロス「水瓶」紀元前1000-800年 出典:アーティゾン美術館https://www.artizon.museum/collection/art/21224
右:箸墓古墳墳丘復原図  出典:「古墳の被葬者を推理する」中央公論新社3)

 志村史夫氏は著書で、田久保晃氏の著書『水田と前方後円墳』を引用し、「巨大な前方後円墳は、その周濠に貯めた水によって地域の水田を灌漑することを目的に造られた」と推定しています4)。そうであれば、初期の前方後円墳が「水瓶」を模っている理由がわかります。前方後方墳については、中国の天神地祇の影響で、国津神の治める地は方形と考えていたことによると思われます。

 クノッソス宮殿とアララト山を結ぶラインは、リンドスやチャタル・ヒュユクの近くを通り、リンドスは、このラインとアレクサンドリアとメネシスが崇拝されたイズミル(スミュルナ)を結ぶラインの交点の近くにあります(図6)。リンドスには、紀元前7世紀に、七賢人の一人のクレオブゥロスが生まれています。クレオブゥロスは、「節度が最善である。幸運に恵まれても傲慢であってはならない。逆境に陥っても卑屈になってはならない。」と言ったとされています。

図6 クノッソス宮殿とアララト山を結ぶラインとリンドス、チャタル・ヒュユク、アレクサンドリアとイズミルを結ぶラインとリンドス

 ニケ像が見つかったサモトラキ島とロドス島を結ぶライン上には、アテネ神殿のあるラトモス・ヘラクレイアの古代都市があります(図7)。ラトモスの遺跡では、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけての陶器の破片が見つかっていることからヘラクレイアよりも早く設立されたと推定され、また、古代の資料や碑文から、遅くとも紀元前4世紀末には放棄されたと考えられています。

図7 サモトラキ島とロドス島を結ぶラインとラトモス(Latmos Antik Kenti Kaya mezarlan)の古代都市

 ニケはギリシア神話に登場する勝利の女神ですが、アテナの随神で、アテナの化身とする場合もあるようです。フルリ人がロドス島と関係があるとすると、サモトラケのニケは、太陽女神シャウシュカやシュメールのイナンナ(イシュタル)とも同神と思われます。イナンナのシュメール語の別名は「nin-edin」(エデンの女主人)で、シュメール時代の粘土板には、両手に鎚矛を持ち、背中に翼の生えた天の女主人として描かれています。

 ラトモス島の岩窟から発見された先史時代の岩絵は、女性の乳房と定義され、同様な岩絵はチャタル・ヒュユクの壁画にも見られ、数千年前に存在したと考えられているラトモス島の豊穣信仰に関連しているとされています。滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡から出土した国内最古級の約13,000年前の土偶は、胴体の上半身で乳房が強調されています。滋賀県東近江市永源寺相谷町にある熊原神社メンフィスを結ぶラインの近くには、多岐理比賣命を祀る奥津嶋神社(滋賀県近江八幡市沖島町)や眞名井神社(籠神社奥宮)があります(図8)。眞名井原一帯は縄文時代から神聖な地と考えられ、「天の眞名井の水」は御神水で、天村雲命が黄金の鉢に入れ、天上より持ち降ったとされています。

図8 熊原神社とメンフィスを結ぶラインと奥津嶋神社、眞名井神社(籠神社奥宮)

 フルリ人の陶器の三角形パターンなどの幾何学模様は、日本の装飾古墳にも見られますが、熊本県山鹿市にある乳房に由来する名前のチブサン古墳やひたちなか市の虎塚古墳の彩色壁画の2つの輪は乳房を表しているのかもしれません。女人高野の慈尊院には乳房型の絵馬が奉納されていますが、古代の豊穣信仰と関係があるのかもしれません。エフェソスは、アルテミス女神崇拝の一大中心地で、この地にあったアルテミス神殿の近くの市庁舎に祀られていた女神の神像が現存しています。この像は胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっていて、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見え、この像は一般に「多数の乳房を持つ豊穣の女神」として知られ紹介されています。「観音菩薩」はイシュタル(イナンナ)の変容した姿であって、「多数の乳房を持つ豊穣の女神」には「千手観音」の「千手」と同じような意味があるとする説もあります(形而下の文化史 「イシュタル」の表象 和久譲治  https://goddess.wakujewelry.com/entry/2019/09/01/182022)。そうすると、水瓶を持っ十一面観音もイシュタル(イナンナ)とつながります。仏教では、観音様は男性でも女性でもなく、悟った姿を表していて、女性のように見えるのは母親のような慈悲を表すためとされています。

 相当数のフルリ人が住んでいたと考えられるイシュワの国名の「馬の国」は、もしかすると「邪馬台国」の名前と関係があるかもしれません。フルリ人の話した言語は、日本語と同じ膠着語で、フルリ語の文章にはシュメール語の表意文字が多く用いられたようです。紀元前13世紀にはフルリ人の全ての国が異民族によって征服されています。異民族はサンスクリット語と関係のある中央アジアのインド・イラン系言語を話したようなので、サムハラ神社は、フルリ人と関係があるかもしれません。空海がフルリ人のDNAを受け継いでいたとすると、空海がサンスクリット語を含む真言密教を2年余りで習得できたことも理解できます。梵語(サンスクリット語)では蘇迷虜(スメル)は「至高」を意味しているようなので(国生みの神々から誕生したスメラミコト)、天皇(すめらみこと)の「すめら」やシュメールやスバルの元の意味は「至高」かもしれません。

 伏羲(ふくぎ、ふっき、ふぎ)と女媧(じょか)の兄妹は、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説があり、中国大陸に広く残されていて、類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数あるようです。伏羲と女媧は、中国少数民族の苗族(ミャオ族)が信奉した神と推測されています。伏羲がフルリ人と関係があるとすると、伏羲の「洪水伝説」とフルリ人の聖地と思われる「アララト山」がつながります。遺伝学的には、東北の日本人やチベット人などで高頻度で見られるY染色体のハプログループD苗族では必ずしも多くありませんが、ミトコンドリアDNAハプログループの研究からミャオ族祖先の日本への移住の可能性に言及する研究者もいます。

文献
1)古代阿波研究会(編) 1976 「邪馬壱国は阿波だった」 新人物往来社
2)コリン・ウィルソン 松田和也(訳) 「アトランティスの暗号」 学習研究社
3)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
4)志村史夫 2023 「古代日本の超技術」(新装改訂版) ブルーバックス 講談社