京極夏彦『数えずの井戸』 二重の意味で再構築された江戸怪談

 ついに刊行されたシリーズ完結編である『了巷説百物語』。しかしその冒頭のエピソード「於菊虫」は、過去のある出来事を巡り展開するものでした。そしてそれを描いたのが本作『数えずの井戸』――江戸時代の著名な怪談を、独自の視点から新たな物語として描いたシリーズの第三弾です。

 番町に屋敷を構える旗本・青山家の家督を継いだ青山播磨。しかし彼は幼い頃から空虚な欠落感を常に抱え、その果てに何事にも無関心になった若者でした。

 そんな彼のもとに、叔母が持ち込んで来た名門・大久保家の娘・吉羅との縁談――言われるままにそれを受ける播磨ですが、大久保家からは家宝の色絵皿10枚を差し出すよう条件がつけられ、青山家側用人の柴田十太夫は、皿を探して奔走することになります。
 さらに自分に興味を向けない播磨を手に入れたいと感じ、家風に慣れるためと称して、青山家に乗り込んでくる吉羅。一方、播磨の昔の仲間で部屋住みの武士・遠山主膳は、そんな状況を唯々諾々と受け入れる播磨に強いいらだちを募らせます。

 一方、何事につけても鈍く、奉公先を失敗してばかりの町娘・菊は、新しい奉公先の主人がその美貌に目をつけてきたところを、又市の仲裁で救われます。その菊の幼馴染で、日がな一日米搗きをして暮らす若者・三平は、顔見知りの徳次郎から、菊との縁談を熱心に勧められることになります。
 その矢先に明らかになる、菊と青山家の隠された因縁。それを知った菊は、自ら青山家の奉公人となることを選ぶのでした。

 そして青山家では家宝の皿を探して騒動になっていたところに、乗り込んできた主膳が吉羅に目をつけたことから、さらに状況は混迷の度合いを深めていくことになります。そして不幸な巡り合わせと行き違いの末に、全ての人々が青山家に集った時、惨劇の幕が……

 いわゆる「お菊の皿数え」で知られる皿屋敷の怪談を題材にしつつ、それぞれに欠落や過剰な部分、あるいは偏執的なものを抱えた登場人物たちの姿を描く本作。
 常に満たされぬ欠落を抱えた播磨、聡明すぎて先を見すぎて動けなくなる菊、全てのものが詰らず破壊衝動に駆られる主膳、欲しいものは必ず手に入れようとする吉羅といった人々が、それぞれの想いに従って動く(あるいは動かない)末に、因縁に導かれたように破滅に向かっていく姿が綴られていきます。

 その方向性自体は、『嗤う伊右衛門』『覘き小平次』と同様ではありますが、しかし本作の大きく異なる点は、冒頭で青山家で起きた不可解な惨劇が起きたことと、それを巡る様々な噂が語られた後に、時を遡って真相が描かれていくという構成を取る点でしょう。
 あらかじめ提示された謎が、真実に向けて収束していく様はまさしくミステリ的――本作の場合、「動機」に当たるものは「因縁」といってもよいでしょうか――ですが、それは同時に、「皿屋敷」という不思議な物語の在り方と重なるようにも思えます。

 怪談に興味のある方はよくご存知かと思いますが、この皿屋敷は、「播州」と「番町」、有名なものだけでも二つの土地を舞台にするだけでなく、日本各地に類話が伝わり、そしてそのいずれもが少しずつ内容と登場人物が――あるいは登場人物の性格や立ち位置が――異なるという、不思議な怪談です。
 その曖昧模糊とした在り方自体が実に怪談的――というのはさておき、本作はその様々な皿屋敷を踏まえ、様々なお菊、様々な青山播磨を集約し、あるいは分割(本作で主人公二人と対照的な立ち位置の吉羅と主膳もまた、皿物語バリエーションによっては主人公として登場する存在です)してみせるという、非常に手の込んだ趣向となっています。

 江戸怪談を、近代的自我を持つ人々を登場人物として語り直すだけでなく、その様々なバリエーションを取り込み再話してみせる――本作は二重の意味で、江戸怪談の再構築を行った作品というべきでしょうか。

 しかし本作が心に残るのは、その趣向の面白さももちろんではありますが、それ以上に登場人物たちの抱えたものが、何かしら読者である我々自身のそれとして、心に響く点にあるのではないでしょうか。
 だからこそ、そんな「自分たち」が、抗えない因縁の波に巻き込まれ、井戸の中の空虚に飲み込まれていく――その怒涛のクライマックスには、目撃者となった徳次郎のように、ただ呆然とさせられるばかりなのです。

 そして残された徳次郎と又市が、消えていった人々のために何ができたのか――本作でも語られるそれは、冒頭で触れたように『了巷説百物語』で再び描かれることになります。そちらについてはまたいずれ……


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