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森谷明子『千年の黙 異本源氏物語』 日本最大の物語作者の挑戦と勝利

<大河ドラマに便乗して本の紹介その1>
 今なお数多くの人を魅了する『源氏物語』。その物語の存在そのものを題材とする作品も決して少なくはありませんが、本作はその中でもユニークなものの一つでしょう。何しろ本作は、作者たる紫式部を探偵役とした――それも、源氏物語そのものにまつわる謎を解き明かす――ミステリなのですから。

 本作は、二人の主人公を――藤原香子、すなわち紫式部と、彼女に仕える女房の阿手木を配置した作品。明るく活発な性格でどこにでも飛び込んでいく阿手木を助手役に、香子を安楽椅子探偵にそれぞれ配置した形となります。

 全三部構成の本作の第一部「上にさぶらふ御猫」で描かれるのは、出産で宿下がりした中宮定子に同行した、帝の寵愛した猫の行方不明事件。それとほぼ時同じくして、左大臣藤原道長邸からも猫が姿を消し、憎からず思っていた男童の岩丸が疑われていると知った阿手木は、猫を探して奔走するものの、その背後には――と、「日常の謎」的な発端ながらも、物語は意外な方向に展開していくことになります。

 この第一部が歴史上の有名人を探偵としたという意味での歴史ミステリだとすれば、第二部「かかやく日の宮」は(その要素ももちろんあるものの)歴史上の謎を解き明かすという意味での歴史ミステリといえます。
 ここで描かれるのは、源氏物語最大の謎とも言うべき、幻の一帖の行方――物語の構成上、書かれているはずであるのに、現在存在していない「かかやく日の宮」が、実は紫式部も知らぬうちにその存在を抹消されていた、という驚くべき設定から、その理由と犯人が解き明かされていくことになります。

 そしてエピローグとも言うべき第三部「雲隠」で、もう一つの幻の帖の行方とそこに込められた式部の想い、そして一つの皮肉な真実が語られることにより、物語は結末を迎えることになります。

 そんな多面的かつ独創的な歴史ミステリである本作ですが、それに加えて魅力なのは、個性的かつ存在感ある登場人物たちの描写です。登場人物は大半が実在、それも教科書に登場するような面々ですが、本作において描かれるのは、歴史の一ページとしての姿ではなく、生き生きとした人間としての顔なのですから。

 特に女性陣は、よほど高貴な身分でもなければ名前も生没年も不詳のこの時代において、それぞれに一個の人間として自分の存在を主張するのが、何とも痛快に感じられるところです。
(そして本作の黒幕とも言うべきある人物にしても、通り一遍の悪役ではないことが示されるのもよいと感じます)

 しかしそれ以上に本作で魅力的なのは、「物語ること」「物語の力」を描き出している点ではないでしょうか。

 我が国の物語の源流の一つとも言うべき『源氏物語』。しかしその完成に至るまでは長き年月を必要としたこと、そして何よりもその内容故に――絶賛の声が多かったのは言うまでもありませんが――批判・非難の声もあったことは想像に難くありません。そしてまた、式部のような立場の女性がこのような文学作品を書くことに対する壁もまた、分厚いものがあったことでしょう。

 実に本作は、ミステリ味を加えることにより、物語作家としての紫式部によるその偉大な挑戦を巧みに浮き彫りにしてみせたと感じます。物語を書き続けていくことの決意、物語が自らの手を離れて拡散していくことへの畏れ、物語が奪われることへの怒り――そんな式部の想いを通じることによって。もちろんそれは、この時代を生きた彼女ならでのものでしょう。しかし彼女の挑戦は、現代に至るまで様々な物語作者が経験してきたものであり――そして彼女が全身全霊を賭けて生み出した物語が、今なお読み継がれているということ自体が、彼女の勝利の証といってもよいでしょう。

 本作において彼女が挑んだ謎は、その挑戦と勝利を別のベクトルから描いたものといえます。そしてそれだからこそ、本作で――特に本作の第三部「雲隠」で――描かれた彼女の姿に、強く感動を覚えるのです。
(そして本作が作者のデビュー作であるという点に、物語作者としての作者の決意が感じられます)

 少々冗長に感じる部分はあります。古典や日本史の知識がないと厳しい部分もあります。それでもなお――本作は読み継がれる価値のある作品であると、今なお感じられる名作です。


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