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宗教から見たダイバーシティ&インクルージョン -世界や人々の多様性を尊重した思考と行動を起こすこと-

夏休み明けてすぐの2024年8月19日。東京・表参道にある青山ブックセンターからお声がけいただいて、私の初めての単書『非常識なやさしさをまとう―人とともにデザインし、障がいを超える―』刊行記念イベントを開催させていただくことになりました。

トークセッション形式ということで、「どなたかお話ししたい方いますか?」と聞いていただいてすぐ、大学院時代の恩師である宗教社会学者の橋爪大三郎さんが頭に浮かびました。

橋爪先生をお招きし、私が現在感じている「多様性」についてのもやもやを相談させていただきたいと思い、この貴重な機会をいただきました。約1時間半にわたるセッションでは、参加者の皆さんと共に、探求の旅路を進めることができました。

このnoteは、そのイベントの前半部分で、私が抱えている疑問について橋爪先生とお話しした内容の一部をまとめたものです。イベントの経緯などについては、私の本に詳しく書かれていますので、ぜひお時間がある際にご覧ください!


包括しようとするスタンスが課題の再生産につながっていないか

田中美咲(わたし):近年、ダイバーシティ&インクルージョン(DE&I)がより多く語られるようになったことは、とても良いことだと思います。しかし、これらの概念を実際に取り入れようとする際に、管理や包括しようとする意志が働き、それが二項対立のような構造を生み出しているのではないかと感じています。

そのような構造に対して、言葉にしきれない恐怖感や違和感を抱いてしまうことがあります。多様な人々が存在することを認識した上で、あえて包括しようとする行為自体が、新たな課題を再生産しているのではないかと考えるのですが、橋爪先生のご見解をお聞かせいただけますか?

橋爪大三郎(橋爪先生):おっしゃる通りだと思います。その感覚を最初に提起されたのはとても良いことです。日本では「ダイバーシティは良いことだ」という言葉で議論が終わってしまいがちですが、現在私が住んでいるアメリカでは、この議論は40~50年前から始まっており、何度も繰り返し議論されてきました。

例えば、大学は多様性の概念に縛られてしまい、「こうしなければならない」という状況に陥っています。最近では、パレスチナ問題に関する校内デモが行われていますが、これを支持することが反ユダヤ主義と見なされることもあります。大学が反ユダヤ主義に肩入れできないと表明すると、今度は大学自体が攻撃の対象となってしまいます。まさに非常に繊細で難しい問題であり、これに対して適切な態度を取る必要がありますが、多くの人々が悩んでいる状況です。

わたし:日本では、DE&I(ダイバーシティ&インクルージョン)を推進することが当たり前になってきており、かつてのサステナビリティのように、何らかの発言やコミットメントの宣言が必須とされ始めています。もちろんやらないとりはずいぶんいい。でも、これを発言できるのは「特権を持つ者」だからこそではないかと感じています。その特権保持者がこれを語ること自体が、課題の再生産に繋がっているきがして…

橋爪先生:そうですね。重要なのは「誰がそれを言っているのか」「誰がそれをしようとしているのか」という点です。しかし、それが曖昧なまま進んでいるように感じます。誰かがそうしようとしているからこそ、企業が右へ倣えすることがあるのです。でも、そのきっかけが見えにくくなっている気がします。これを明確にしないと、結局何が起こっているのかがよく分からなくなってしまいます。

最初に言い出したときは、「良い人たちが良いことをしようとしている」だとおもいます。ただ、こうした動きが続くと、かえって抑圧的になったり、分断を生んだりすることがあります

たとえば、トランプがカマラ・ハリスに対して発言したように、DEIを推進しようとすると、「DEI枠で採用しました」とか、「その枠が必要だから仕方なく採用しました」といったニュアンスが生まれてしまうことがあります。こうなると、もはや悪口のようになり、分断を生んだり、アパルトヘイトのような状況になったりしてしまいます。つまり、この問題は非常に難しいのです。

わたし:わたしも実体験として、何らかのイベントで登壇をするときに「女の起業家なので呼びました」と直接的に言われることもあります。なんだかその「枠」の中に、マイノリティを当てはめているだけのように感じることが多々ありますし、ただのチェック項目をクリアするためだけのものになっているように感じることがあります。

橋爪先生:以前はその枠すらもなかったから、呼ばれるだけまだいいですよ。その行為は腹たつし、主催者に怒ってもいいくらい。でもそのうち、その枠すらも無くなっていく。それが目的ですよね。

一方向に向くことのできる人だけの多様性

わたし:圧倒的なカリスマ性や共通の習慣などによって、宗教や企業が集合体として成り立っている側面があると思います。近年「多様性」を認める風潮がありますが、宗教や企業が一方向に向かおうとする姿勢がある中で、多様性を謳うことには無理があるのではないかと感じています。つまり、近年の「多様性」は、本当の意味で多様な存在を受け入れるのではなく、同じ方向を向けるという前提の上で「受け入れられる多様性」を指しているように思います。

そのため、現在の多様性を語る市場の中には「除外される多様性を持つ存在」がいるようにも感じますし、一定のルールの中で成立する多様性について、「誰にとっての正義なのか」「誰による多文化共生なのか」という疑問も抱いています。

こうした構造が成立してしまう背景には、神と市民の関係性や、法・ルールの存在が関係しているように思います。この関係性について、橋爪先生はどう捉えていらっしゃいますか?

橋爪先生:こういった問題が最も議論されるのはアメリカです。これをヨーロッパや日本で話すと、「一体何のことだ?」という反応が返ってくることが多いでしょう。アメリカでなぜこの問題を気にしなければならないかというと、アメリカは移民の国であり、多様な人々が暮らしているからです。かつて、奴隷制が合法で、南部には奴隷州が存在していました。奴隷制がなければ、綿花やサトウキビといった当時のアメリカの主産業は成り立たなかったんですね。

その後、南北戦争が起こり、リンカーンが登場して奴隷解放を実現しました。しかし、解放された奴隷たちは失業し、白人から迫害を受けるようになりました。彼らは恐れて選挙にも行けず、さらにKKKが台頭して、黒人に対するリンチや殺害が行われてしまった。アメリカは移民が平和に暮らせる社会を築くはずだったのに、事態はかえって悪化しました。だからこそ、この問題を解決しなければならないという状況に至ったのです。

南部では分離政策がとられていますね。白人と黒人はバスやレストランなどで分離されていたりする。この状況は1960年代まで続いた。本当に最近ですよね。それを何とかしようとしたのが北部の連邦政府で、そこで法律が制定され、黒人も公民権運動に参加しました。当時はダイバーシティの問題というよりも、人権の問題でした。しかし、そこから課題が残り、DEIという概念が生まれ、現在まで続いてきたのです。

わたし:もちろん現在語られる多様性やDE&Iには歴史背景があり、誰のための何の多様性なのかと言ったことは注視していかなくてはならいけれど、ここまで根深く続くこの構造的な課題に対して、近年の表層的な多様性を語り、チェック項目だけを実践するだけのアクションプランではどう対峙していけばいいか…うーん。

橋爪先生:私も学びのために、ちょっとダイバーシティの定義をWikipediaで調べてみたんですよ。まあ、信頼できる情報源かどうかは別としてね。
「職場における多様性の存在」とされていますが、多様性が問題になるのは会社や学校なので、間違ってはいないでしょう。でもね、多様性というのは、そもそも社会に存在するものです。多様性があるべきかどうかではなく、「ある」ものなんです。ただ、職場や学校に目を向けると、白人ばかりだったりして、多様性が欠如していたわけです。

現在のダイバーシティの定義は、会社や社会にもダイバーシティが必要だと言っていますが、実際にはそうではない。社会はすでに多様であり、会社がその多様性を反映すべきだという順序があるんです。しかし、この議論がされていません。社会にどのような多様性が存在しているのかが議論されずに、「会社をどうするか」という話から始まってしまっている。議論がまだ始まっていないと思います。

多様性を学び、話し合う機会がなかった私たち

わたし:多様な人がいるということはあたりまえなのに、それをちゃんと学ぶ機会がなかったようにおもいます。あったのかな…でも私はこの数年でようやく学びを深めて知ったことが山ほどあります。

橋爪先生:戦前は、台湾や朝鮮があり、日本には大和民族、朝鮮民族、漢民族がいるといったことが小学校の教科書に書かれており、多民族であることは常識でした。しかし、戦後にはそれがなかったことにされ、考えないようにしている傾向があります。在日の人々や日本に帰化した人々も後回しにされているのが現状です。

アメリカは移民が非常に多いため、こうした問題を無視するわけにはいきません。移民の間には明確な差別があり、後から来た移民が前からいた移民からいじめられることもあります。ヨーロッパにも多くの移民がいて、移民に対する差別やネオナチの問題もありますが、ヨーロッパの方が過激だと思います。

アメリカは国境に壁を作ることを言いますが、移民を攻撃したり「帰れ」と言ったりはしません。一方、ヨーロッパではそうした発言が見られます。だから、多様性があるからどうしようかと話し合っています。しかし、日本は多様性に対する意識が低く、良い考えも何もないのが現状だとおもいます。

アメリカ・ヨーロッパと日本の「多様性」の捉え方の違い

わたし:私は「多様性」について調べる中で、宗教や歴史的背景によってその前提が異なるのではないかと思い始めました。例えば、多民族・多宗教の多様な属性をそのまま包括しようとするEUや、唯一無二の存在に対してそれ以外のものを福祉的に包括しようとするUSに対し、日本は一神教でないため圧倒的な存在がなく、包括する側・される側という概念が薄いように感じます。多様性と宗教の関係性について、橋爪先生のご見解を伺いたいです。

橋爪先生:そこはとても重要なことです。EUやUSなどの一神教の国々と、インド・中国・日本などの多神教の国々では、多様性の考え方が異なります。一神教では、神が一人であり、その神が世界も人間も創造したと考えます。そのため、人種や障害があっても、それは神がそう作ったものであり、神から承認された存在として認められます。したがって、迫害は認められていません。

わたし:日本の場合はどうでしょうか?

橋爪先生:日本や多神教の国々では、違いがあると神がそうしたのではなく、「みんなと違って申し訳ない」という感覚になります。マジョリティが強くなり、マジョリティがマイノリティを包含するという構造が生まれがちです。これが、日本でいじめが多くなる理由の一つです。

わたし:日本では、自己責任論や環境ガチャ・親ガチャなどの考え方が見られますが、一神教の例から考えると、「神様のせいにできる」と捉えられることで、少し気が楽になるかもしれないと感じました。本人も、周りも。

橋爪先生:まさにその通りです。神様が悪いと考えることもできますが、実際には神様が悪いわけではありません。そのため、その違いを理解しやすくなる部分があります。

カトリックでは、教会が一つで、さまざまな人がその教会に集まり、親しくなって混血し、グラデーションが生まれます。一方、プロテスタントでは、民族ごとに教会があり、混血しにくいため、多様性の解決が難しくなります。社会には多様性があっても、教会や会社で出会うことが少ないのです。

わたし:つまり、現在や私たちの近い場面で考えると、同じ場やコミュニティに多様な人が共に暮らしたり、過ごしたりすること、さらに同じ場所でグループごとに分かれないくらいの人数にするなどの条件が整えば、多様性が理解されやすく問題が解決されやすいと考えられるのでしょうか?

橋爪先生:これまではグループごとに分かれていましたが、産業化が進むと、みんなで一緒に活動しなければならなくなります。しかし、その過程で摩擦が生じることもあります。解決策の一例として「ハロウィン」があります。様々な人がグループを超えて近くの家の人からお菓子をもらうといったイベントが、社会的な解決策となることもあります。

ただし、会社の場合、大企業では「誰でも来てください」としなければならず、職場に多様な人を入れる必要があります。その結果、マイノリティがいくら努力しても就職できない場合があります。黒人やヒスパニックを理由に採用を拒否すると、自律的な生活が難しくなります。政府としては適切に採用してほしいと考えていますが、それには副作用もあります。

わたし:その副作用とはどのようなものでしょうか?

橋爪先生:企業にとっては、大変で手間がかかります。「多様性枠」を設けると、専門職や特別業務の場合、能力に特化して採用したいのに、その枠を作る必要があると、能力の高い人材を採用できなくなることがあります。これが課題です。

わたし:そうですね、障害者雇用率の話や、女性の役員比率をどうするかといった問題について、経営者としてその重要性も理解しつつ、持続的に利益を上げるための人材や経営戦略を考えると、悩ましいことが多いと感じます。

橋爪先生:一般論として、これが正解というものはありません。その会社に実害がなく、社会に利益があるなら、多様な人を採用していくべきだと思います。社会にはこうした多様性があるのだから、会社の中にも同様の多様性があって然るべきだという考え方は成立します。

例えば、数学研究者や宮大工、スタートアップの人数が少ないメンバーの場合は、仕方がないと思います。ただし、議論を続けることが必要です。

わたし:私自身、この本の中にも書いていますが、スタートアップや人数の少ないチームで活動する中で、多様な人がいるからこそイノベーションが生まれると信じ、できるだけ多様な人を採用してきました。しかし、やはり難しいことが多く、失敗もたくさんありました。

橋爪先生:それは仕方がないことです。多様性は歓迎されるべきですが、個別のケースで誰かを排除しようとしていないのであれば、大きな問題はないと思います。
 

コントロールされている?本当の意味での多様性は?

 わたし:上記の観点からすると、実は「多様性」は恣意的で、コントロールされたもののように思えます。本当の意味での多様性とは、どういった概念を指すのでしょうか?

橋爪先生:社会がどういう多様性で成り立っているのかを学ぶ必要があります。まずは、人生の中でどのような障害があり得るのか、どんなことが起きうるのか、働く機会や場所でどのような支援が必要かなどを調査してデータ化することが重要です。しかし、普通の生活をしている人には、そういった調査を行う時間がないことが多いので、ここはまず政府が取り組むべきです。

ただし、政府も限界があります。そこで、誰かが考え、書物にし、みんなが良いと思うアイデアを出していく必要があります。田中さんの書かれた本もその良いアイデアなのでぜひみなさん読んでみるといいですね。

そして、政府がそのアイデアをもとに法律を作り、補助金を出し、罰則を設けるなどの対応をすることが求められます。ただ、最適解を見つけるのは難しいため、みんなが一生懸命考え、試行錯誤することが必要です。

わたし:そうですね。

私たちはすぐに政府となって法律や補助、罰金を作ることはできませんが、政府が良いと考えうるようなアイデアを出し、実践し、成功事例を生み出していくことができるのは、企業や個人、学校などの役割だと思います。

橋爪先生:まさしく。一人ひとりが声を上げることができるということです。


他にもいろいろnote書いています!ぜひご覧ください!


当日会場にお越しいただいたみなさま、そして青山ブックセンターのみなさま、橋爪先生、そして出版に際しいつもお力添えくださったライフサイエンス出版のみなさま、ありがとうございました!


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