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包括ではなく、包摂をするということ

明確にしておきたいのは、わたしがインクルーシブデザインについて語る時に、一定の団体や人の挑戦を否定したいとは全く思っていないということ。行動しているだけで褒め称えたいし、最高だと伝えたいです。


インクルーシブデザインの記号化

「サステナビリティ」や「SDGs」のように、「インクルーシブデザイン」も記号化され始めているなあと思う。記号化されることについてはこの記事にも書いた通り。

インクルーシブデザインは、これまで企画や意思決定のプロセスから排除されてきた人々を、デザインの上流から巻き込んでいく手法。もちろんこのDE&Iやウェルビーイングを重要視する社会の流れの中では、企業や事業者が取り組むにはとてもわかりやすい"HOW"であるし、マーケットの拡大やCSV/CSRといった枠組みで考えてもメリットは多い。

ただこれまでその「排除されてきた」とされる人を「リードユーザー」と銘打ってヒアリング対象者として起用しているだけで、意思決定プロセスの一部分に関わる"体験"をさせるだけで、仕組みとしては全くそのプロセスの改善に至っていない例をよくみる。

うーむ、ちょっとすでに、ウォッシュになっていないですか?🤔


インクルードしようとする姿勢がすでに課題を再生産しているのでは

ふとこんなことを考える中で、インクルーシブデザインという仕組みそのものが何を解決しようとしていたかと、社会構造を振り返りたくなる。

従来のダイバーシティーアンドインクルージョンに対して、 何らかの属性ごとにカテゴライズされたものをいかに包括するのかといった、主と客体に分かれた構造や、マジョリティとマイノリティと言う構造の中でいかに"包括するのか"と議論する事は、確かに取り残す存在を作らないと言う意味では多様な存在を包括すると言う構造になるものの、とても一元論的で、それぞれがそれぞれの形ありのままであっても良いのだと言う本来の意味での多様な存在を認めているものとは違うのではないかと思う。

いわば多元論的にことを捉えていくべきだと言う、プルリバースデザインのような考え方があるが、それもそれでマイノリティーはマイノリティーのままでも良いのだと言う 権利を剥奪されたままで再分配すらされず、社会構造を変えることにはつながらないのではないかと思う。

そんなこんなで最近一緒に活動する仲間たちと、もっと多元的なインクルーシブデザインのようなものが必要なのではないか、というような議論もした。

「リードユーザー」というカテゴリーに対象者を一元的に押し込み、その多層的かつ多元的で変動しゆく人を無効化し、ワークショップまたはヒアリングという仕立てをするものの構造的には主客分離して構造的課題は変わらないままのデザイン手法は、ちょっと危険な香りがする。

参加型デザインの仕組みをうまく使えないか

いかに多様な人がプロジェクトに対等に参画しゆくかといった仕組みは、とても難しいとは思うのだけど、Victor Uduewaの「Radical Participatory Design」を参考にしつつ、以下想定をざっくりまとめておく。

(実践を通してまとめはじめているので、どこかにレポート公開したり記事にできたらいいな…)


プロセス全体に関わり、共に責任を持つ

フローを画像にした図(以下文字として記載)

1.声を上げる、設計する
2.チームを作る
3.相互理解をして多様な仲間がいることを知る
4.問題や課題、やることの定義づけ
5.アイデア出し
6.試作
7.検証
8.アウトプット
9.成果
10.振り返り

プロセス全体のうち、いわゆる「リードユーザー」はアイデア出しのためのワークショップだけに関わることが多く、その前後背景がわからない中で意見を言わなくてはならなかったり、責任のない発言もできてしまう。

(私もリードユーザーとなって参加したことがあるけれど、頑張って作った人を目の前にバチクソ悪口は言えないよ…涙)

設計段階からアウトプットに至るまでプロセス全体に関わることと、そこに共に責任を持つことが大切だと思う。

まずは、ヒアリングではなくチーム結成から

デザイナーやオーナー、プロフェッショナルはあくまで自分のスキルの提供者としてそこにいるのであって、主導権や決定権を握るなど、ヒエラルキー性を強化する関わりであった時点で本質的にはそれはもはや対等ではないのでは、と考える。

  • 課題当事者はミーティング,コミュニケーション,プランニング全てで完全かつ対等なチームとして常にそこにいる

  • 課題当事者の数が、当事者ではないプロのデザイナーの数を上回っている

  • 課題当事者は、成果物や作業に関する説明責任、リーダーシップ、オーナーシップをもつ。 (デザイナー主体ではなく”共に”を実現するにあたり、課題当事者の意見を拒否できない状況にする)


包括ではなく、包摂がいいな

日本財団の「インクルホイ」というラジオで耳にしてから、インクルーシブを日本語に訳す時に「包括」ではなく「包摂」がいいなーと思ったのでメモ。

包括は、あるものを完全に含んで、網羅することを意味し、「包摂」は、ある事柄を、一定の範囲の中に包み込むことを意味することが多い。

特権を持つ人のルールの中に押し込めるのではないやり方がいいな。


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