見出し画像

〘後編〙「死にたい」「つらい」「生きている意味がわかりません」19歳少女の苦悩と向き合いました。〘180日間の記録〙

皆さんこんばんは。
柏野美沙です。

今回の記事は、掲題の通り先般2022年3月に公開したnote記事「〘前編〙「死にたい」「つらい」「生きている意味がわかりません」─19歳少女が抱える苦悩と向き合いました。〖180日間の記録〗」の後編記事となります。本記事をいまご覧の方で当該記事をまだご覧になっていない方におかれましては、まずは下記の前編記事からご覧ください。

本後編記事では、Xさんをお支えした後半3ヶ月間の記録を引き続き綴るとともに、責任/主体性/人間の在り方、そして人生について論じます。

また、Xさんとご一緒したこの180日間の一連の経験を受けていま、わたしには新たな夢ができました。本記事の最後にてこれの詳細を表明し、結びとします。

後編記事の最後まで、1人でも多くの方にご覧いただきたいと思っています。責任を持って全てをご説明するために、5万字を書き切りました。
絶対に、読んでください。何卒よろしくお願いいたします。

この記事は、次の段落で構成されています。

慟哭


『……もしもし、電話出れなくて申し訳ないです……!』

スマホから聞こえてきたのは、いつもと何ら変わらないXさんのお声でした。……それが、わたしには少しばかりショックに感じられました。

「……いえ、こちらこそ夜遅くに突然電話してしまってごめんなさい。」
「催促をするようで申し訳ないのですが……、わたしからのDMって見ていただけましたか?」

『…………。』
『あ、ごめんなさいいま気づいて!』『お返事できていませんでした……。』

その声は、何かを誤魔化そうとしている人のそれでした。
……その言い訳には、無理があるよ……。わたしは、胸がきゅっと狭まるような苦しさを覚えました。

これを指摘すべきか否か迷いながら、わたしは口を開きました。

「……Xさん、最近、こういうこと多くない?」
「急に何日も連絡が取れなくなったり、既読放置が続いたり……。もちろん返信はこちらが強制できるものでも何でもないけど、いま一緒に頑張ってる途中でしょ?」「だから、こういうことをされると不安になるの。わかるかな……?」

「前回会ったとき、言ってくれたよね。」「今度は電話できる日も、来月お会いできる日程も、きちんと連絡します、って。」「わたしは、それが嬉しかったの。」「本当に、本当に嬉しかった。」「でも、そのことばと裏腹にこんなことをされると、すごく怖くなるよ。」

……返ってくるのは、ただただ重い沈黙でした。

「……Xさん、ごめんね。」「怒っているわけじゃないの。」「いま、何を思っているの?考えているの?……それを教えてほしくて。」「声が聴きたい。聴かせてほしい。」




『──ごめんなさい、わからないです。』

絞り出したような、声でした。

『別に美沙さんのこと、嫌いになったとかそんなんじゃないのに……、』『なんで、』『美沙さんからDMが来たことは通知でわかってて、でも一度置いておこうって思っちゃって、』『なんで自分がこんなことしちゃったのか、ほんとにわからないです。』

その声に、やがて涙が滲み始めました。

「……もし、今日わたしがこうして連絡を取らないでいても、時間が経てば、Xさんの方からまた返信をしてくださっていましたか。」

『……今日連絡をもらわなかったら、たぶん、ずっとこのままだったと思います……。』

「……それはショックだよ。」「悲しい。悲しすぎる。」
「わたしは、XさんからDMをもらうのが楽しみなの。いつも心待ちにしているの。」「Xさんは元気だろうか、気持ちは安定しているだろうか、何か困っていることはないだろうか、いまわたしにできることはないだろうか。ずっと考えてる。」「だから、XさんからDMが来たら1秒でも早く内容を確認して返信してあげたいと思ってるし、そうしてるの。」「でも、Xさんはわたしと同じようには思ってくれないの?……それが、とても悲しいよ。」

このとき、わたしは冷静さを欠いていたことを認めます。
でも、いまここでちゃんと言わないと、何も伝わらない。そう思ったから。

『…………。』
『ほんとは、……ほんとは、知られたくなかった。』

やがて、Xさんはいままでずっとわたしに言えずに伏せてきたのであろう、その胸中を吐露し始めました。

『いい子で居たかった。美沙さんの前では、いい子で居たかったんです。』

『……いつも、いつもいつもいつも、取り繕って仮面を被って笑顔を張り付けて少し高い声でゆっくり歩いて綺麗な言葉遣いで人当たりのいいいい子で居たかったし、そういう人になりたかったし、そんな上辺だけでそれでも一緒にいるのが嘘みたいな方だから、そうありたかったのに……!』

『それでも、美沙さんがついてきてくださるのは心強くて、そんなこと他の誰にも思うことができなかったから。……でも、巻き込んだのはわたし。わたしなんです……。』

あの冬の日にXさんから事情を打ち明けてもらうまで、わたしがそれに全く気づかなかった理由が、いま初めてわかった気がしました。

『……2回目にお会いした日のこと、覚えてますか。一緒に課題ノートを買いに行った日。……わたし、あのときのことすごく覚えてて。』『不安がっていたわたしのために、美沙さんがずっと話を聴いてくださったこと、本当に嬉しかったんです。』『美沙さんは、「大丈夫な大丈夫」をくれるから、安心できるんです。』『「このスペースだけこのまま持って帰りたい。」って、そう思ってしまったくらいに。』『だから、あのあと帰るとき、電車の中で、「生きててよかった」って、生まれて初めて思えたんです。でも、これからあの地獄みたいな家に帰らなきゃいけないと思うと、涙が止まらなくなっちゃって。』

感情のままに奔るそのお声を、わたしはただ聴き続けました。

『お金のこと、数十万円を無駄にしてしまったこと、この前、親に打ち明けて謝罪したんです。正直めちゃくちゃ怒られるだろうなと覚悟してたんですけど、そこまで怒られなくて。でも、「子どもが最後に頼れるのは親だけなんだから」って言われてしまって。』『……親らしいことなんて、全然してもらったことなんてないのに。』

『中学生の頃、親に直接、「そんな何の役にも立たない楽器なんかやって、この穀潰しが!」って怒鳴られたことがあります。』『兄弟の逮捕のときも、父に「お前のせいだ」「お前が夜遊びで家をずっと空けてるからだ」ってなじられて。自分も浮気に不倫に、わたしと同じことをしているくせにって、大喧嘩してしまいました。』

『あと、先日学校の階段で転んで、けっこうひどい捻挫をしてしまって。いま松葉杖生活なんです。』『先生に、親に迎えに来てもらいなさいって言われて電話したんですけど、電話口でいきなり「何してるんだ!」って怒鳴られてしまって。』『それで過呼吸になっちゃって、日本語が喋れなくなって、同級生に肩を貸してもらいながら「もう家に帰りたくない」って大泣きして。』『絶対、引かれた……。』

『もう夜もちゃんと寝れるようになったし、変われた、そう思ったのに。』『あんなに頑張ったのに。』『また、戻っちゃった……。』

泣き続けて、吐き出し続けて、Xさんは段々と落ち着きを取り戻しつつありました。

「……Xさん、ごめんね。」
「もしかしたら、……わたしだけ独りよがりになってしまっていたのかもしれないね。」

うまくいっていると、思っていた。Xさんが変わってきてくれていると思っていた。いや、確かに、変わってきてはいた。でも、わたしはそれに浮かれてしまってはいなかったか。あの日の約束を、決意を、わたしは本当に果たせていたと言えるだろうか。

「こういうことを言うのもどうかと思うけど……、わたしは恵まれていたんだろうと、思う。」「Xさんの話を聴いていると、つくづくそう思うよ。」「家庭環境もそこまで最悪ではなかったし、」「死にたいとか思ったことはないし、」「リストカットの経験もなかった。」

『……経験なんて、ない方がいいです。』

「……うん、そうだね。」

『……』
『あの冬、音信不通のあとで一番最初に話を聴いてもらったとき、実はリスカしてて。シュシュで隠してました。』

「ごめん、……気づかなかった。」

『あ、そういう意味じゃなくて……。むしろ気づいてほしくなかったので……。』

その後数時間に渡って、Xさんのお話を聴き続けました。

学校のこと。友だちのこと。家族のこと。音楽のこと。
高校生の頃からずっと、ずっと、Twitter越しにわたしのことを見ていたこと。だから、いまこうして一緒に話せているのが夢みたいだ、ということ。
夜遊びをしていたときのこと。浮気をしているときのよくわからない気持ち。男の人に、「わたしを殴ってください」、そうお願いしてしまう自分がいる、ということ。
深く落ち込んだとき、書いている個人ブログがあること。そのリンクを送ってくださり、電話を繋げたまま全ての記事に目を通して、感想をお伝えしました。

そしてこのタイミングで、Xさんはいままで誰にも話せずに抱えていたとある秘密を、わたしにだけ打ち明けてくださいました。これについては、前編記事冒頭にて述べた通り、その一切を記載しません。

『……美沙さんに話を聴いてもらうようになってから、浮気も夜遊びも、あれから1回もしてないんですよ。』はにかむような声でそう教えてくれたときはすごく安心したし、……本当に嬉しかったよ。




誰かのこころに踏み入ろうとするとき、人格的に未成熟な人間は、攻撃性や暴力性を用いることがあります。しかしながら、わたしに言わせてみれば、それはあまりにも浅はかな選択です。
一番の不幸は、"短期的にはそれが成功してしまうことが非常に多い"ことでしょう。あなたのこころの、つけられたキズの部分で手が止まるから、そして何よりもその瞬間にこころが大きく"動いてしまう"から、その感覚に何らかの意味を見出そうとする。このとき自己肯定感が極端に低いと、その"痛み"に「絆」「愛」といった歪な名前を付けてしまうのでしょう。でも、それでも、本当の本当は、"痛み"は"痛み"でしかないとわかっていたからこそ、あなたは苦しかったのではないですか?



「……Xさんにとって、わたしって、何なの?」
「Xさんは、これからどうなりたいの?」

『美沙さんは、わたしの命綱なんです。』

『……頑張った、って言ってから死にたいです。』そのことばを、わたしは決して忘れません。




「1つ、今回の件で結論を出すとするならば──、」
最後、わたしはXさんに対して、想いを紡ぎました。
「信じて待っていたからこそわたしはすごく悲しかったし、このことをうやむやにはしたくないし、Xさんには自分自身の行動としっかり向き合って反省してほしいとは思ってる。」「決して誠実な態度とは、言えなかったよね。」

『……はい。』

「でも。」
「さっき、わたしがこうして連絡を取らないでいても、時間が経てば返信をしてくれていましたかって聞いたとき、Xさんは、ずっとこのままだったと思いますって、ちゃんと言ってくれた。」「このことについて、わたしは考えたい。Xさん、あなたが言ってくれたこのことばの本質は、何?」

『…………。』

「あなたは、わたしに対して、嘘をつかなかった。」

「……そうでしょう?」「あのとき、時間が経てばきっと返信していたと思いますって答えていたとしても、なんら違和感はなかった。」「でも、Xさんはそうしなかった。言いにくいであろうことを、誤魔化さずに言ってくれた。」
「……つまり、あの"不誠実"という極限の状況の中において、それでもあなたは、最後に為し得る限りの"誠実"をわたしに示した。わたしはそう考える。」「であれば、わたしはこちらの方を大事にしたい。大切にしたい。守りたい。」

──全ては、責任を持って、あなたを最後までお支えするためです。

起こってしまったことは誰にも変えられない。
何よりも重要なことは、それをいかにしてフラットに認識し、次に活かしていくのか、ということです。わたしは、「Xさんをこれからもお支えするためにわたしがいますべきことは何か?」という命題へ、既に思考を切り替え始めていました。

「Xさん。何回でも言います。」
「事実をフラットに見よう。物事の根幹に目を向けよう。そして何よりも、その本質をこそ眼差そう。」「これができるようにならないと、きっと、本当に大切なものを取りこぼしてしまうよ。」



わたしは、あなたのことを絶対に見捨てない。裏切らない。
最後にそれだけお伝えして、電話を切りました。



時刻は午前4時。
東の空は、既に白み始めていました。

パラメーターの作成

電話のあと、数時間の仮眠をとり、わたしは現状の整理を行いました。

Xさんについて示された懸念事項は大きく2つ。
1.Xさんは、短期間の内にメンタル面のバランスが大きく崩れることがある
2.Xさんは、ことばと行動の軸がぶれることがある
今後もXさんをお支えしていくうえでは、これに対処するための仕組みづくりを行うことが現時点の最優先課題として浮かび上がりました。

次に、この仕組みの考案/構想作業に取り掛かりました。
再発を防ぐためには、Xさんのお気持ちが底に落ち切る前にそれに気づくことが何よりも重要であり、可能な限り短いスパンでXさんのメンタル面のバランスを逐一把握し、どうしても隠されてしまいがちなその本心を正確に汲み取り、不測の事態/問題発生時には迅速な対応を行うことが求められました。

しかしながら、では毎日Xさんに電話してメンタルチェックをすればいいのかといえば決してそうではなく……。お互いに都合もあるほか、チェックにかかるXさんのご負担が増えることで三度の音信不通に陥ってしまう可能性も鑑み、最低限の作業量と負担でこれを可能とする術を模索すべきであると判断しました。

検討の結果、わたしはとあるパラメーターを完成させました。

TwitterのDMでは、受信したメッセージに対して「❤」を始めとした各種マークで反応を返すことができます。わたしはこれを活用したパラメーターを考案し、Xさんのメンタルチェックを毎日実施することとしました。本パラメーターについて、わたしがXさんにその詳細をご説明するためにお送りした文章を下記に提示し、解説の代わりとします。

《🤔:Xさんパラメーター》

※定型メッセージ「🤔:Xさんパラメーター」をXさんに毎日送信。
※これを受信後、Xさんは20時までにご自身の状態に基づきマークをつけて反応。選択できるマークは次の通り。

-・- -・- 選択可能マーク一覧とその意味 -・- -・-
🔥:とても元気/絶好調
♥️:良くも悪くも普通/通常通り/フラットな状態
👎️:気分が憂鬱/メンタルが下降気味
😢:元気がない/嫌なことがあった
(この場合はわたしから電話候補時間を4つ送信→Xさんはご都合の良い時間に♥️で反応→わたしから電話)
😂:近日中にパラメーターに反応できなくなる恐れがある
(この場合はわたしから電話候補時間を4つ送信→Xさんはご都合の良い時間に♥️で反応→わたしから電話)

😯:判断保留
※👎️や😢が連続で続くなどしたときに、『美沙さんの迷惑になったらどうしよう』『毎日電話をかけていただくのは申し訳ない』『だから、本当は😢なんだけど…、今日は他のマークを押すべきか/でも嘘をつくのにも抵抗がある』といった、「Xさんの中で生じる可能性があるあらゆる心理的抵抗(葛藤/逡巡/迷い)」を"徹底的に排除するため"のマーク。
※2回連続の使用はできません。1日おきの電話であれば、抵抗感もそれほどなくXさんも素直にマークをつけれると思います。

※20時までにXさんからの反応がない場合は、わたしから電話候補時間を4つに分けて送信(例: 「①20:30」「②21:00」「③22:00」「④22:30」)。Xさんはご都合の良い時間を選択し、当該候補時間のメッセージに❤をつける。時間になったら、わたしから電話。何があったのかを聴く。
※電話候補時間にも反応がない場合は、電話ができないほどに落ち込んでいると判断。「🤔:Xさんパラメーター 再開希望」という定型メッセージを送信。Xさんが元気になったらこのメッセージに何かしらのマークをつけてもらう→わたしから電話&翌日から通常のパラメーターを再開。



最後に。

昨日もお伝えしましたが、パラメーターには遠慮せず、ありのままのXさんの気持ちをつけていただいてかまいません。判断保留マークも上手に使いながら、わたしのことを信頼していただき、そして何よりも「自分の心を大切にする」ために一緒に歩いていきましょう。

「美沙さんには何を言っても大丈夫だった」ことを再度ご理解いただき、「だから、今後も何を言っても大丈夫だ/どのマークをつけても大丈夫だ」という"確信"を、Xさんご自身の中で育てていきましょう。

明日からも、大切にパラメーターをお送りしますね。

このパラメーターを使えば、マークを押すだけで返信が不要となり、この点についてXさんからは高い評価をいただいていました。ちなみに、🤔はXさんが一番好きだと言っていた絵文字です。毎日使うパラメーターとなるため、せっかくならお気に入りの絵文字を冠して使ってみようよ!とわたしからご提案しました。
また、Xさんによると1日を通してメンタルが一定でないことも多々あり、最終的な判断がしたいということで、パラメーターへの反応期限は20時に設定しました。そのほか、😯判断保留マークはこのパラメーターを運用していく中で新しく追加したマークとなります。Xさんをお支えする過程で問題や懸念材料が生じる度に、こうした改良を都度挟みながら、パラメーターを通じてわたしはそのお気持ちに寄り添い続けました。

※パラメーター反応時の様子。
プッシュ通知で即座の確認&対応が可能。

再起

180日間。

Xさんとご一緒したこの全期間の中で、大小様々な問題がわたしたちの前に立ち塞がりました。それらと対峙し、Xさんの苦しみと悲しみをわたしも共に自分自身の感覚として味わうという体験は、ときに多大な痛みを伴い、何度も何度も、わたしは絶望を味わいました。もうダメなのかもしれない、そう思ってしまう瞬間だってありました。しかしながら、わたしはたとえ何が起ころうとも、Xさんの手を離すことは一度もありませんでした。

──最後まで、この人を看て支えていこう。

あの冬の日、わたしがそう決意したからです。
理由なんてそれだけで十分でした。そうでなければ、わたしはあのとき、あの場所で、"決意"などということばを、使 っ て い ま せ ん

自分自身でそれを為すと決めたのであれば、誓ったのであれば、たとえその道中で何が起ころうとも、それを果たすまでは絶対に諦めることなどあってはならないと理解しています。
これこそが、"決意"ということばが持つ"本当の意味"であって、不条理な現実に直面した際にわたしがすべきことは、たとえどれだけ深く打ちひしがれようとも、悲劇的な状況に見舞われようとも、あらゆる手段を用いて改善策を講じ、何度でも自分自身の足で立ち上がり、たった1つの目的のためだけに、自らの生命を力の限り行使することだけです。

感情はいわば結果に過ぎず、使い方を間違えてしまうと、それは我々の足枷となり思考を曇らせます。だから、あのときわたしたちに必要だったのは、傷を舐め合うことでも、憐憫に浸ることでもなかった。あの惨状を前にして、そんなものには何の意味もなかった。それをしたところで、現状は何も変わらなかった

──絶望の淵に立たされたとき、"人間"という存在が、その魂のために果たすべき課題は、

"""考えること"""です。

再度申し上げます。

物事や存在──対象と向き合う際は、何よりもまずその背後にある"構造"にこそ思考の焦点を合わせるべきです。"外側"に表出している事象のみを注視してしまうと、全体的な理解の精度は著しく低下します。

"事実"をフラットに眼差し、その"本質"をこそ見定める。

"問題"を、"問題"である、と正しく認識し、その解決策を"思考"する
その過程において、自らの能力──すなわち"資源"と呼ばれるものと、そして自らの人格こそを最大限まで発達させ、どのような手段を用いようとも、必ず、最後には、活 路 を 見 出 す 。目の前の相手の、その人生に資するだけの価値を果たして生産できているのかを常に自問し続け、不断の努力を以て追求し続ける。これを果たすまでは、歩みを止めることなど決してあってはならないし、赦されてはならない
わたしは進み続けました。そしていまもなお、進み続けています

──これは、その闘いの全てを記した記録です。



4ヶ月目

"本を読む"とは、果たしてどのような営みか?

パラメーターの正式な運用開始と共に、Xさんとご一緒する日々が再び始まりました。

パラメーターに対してXさんから返ってくる反応は、基本的に❤であることが多かったです。これを基準として、突発的に👎️や😢に下降し、再び❤に戻ってくるという傾向が見られました。日々このパラメーターを用いることで、Xさんのメンタルの把握が格段にしやすくなり、わたしも課題の作成/検討作業等により集中できるようになるといった副次的な効果もありました。

そしてこの検討作業を進める中で、いま現在Xさんにお出しし取り組んでいただいている読書課題について補足を行う必要があると判断し、再びお電話をご一緒しました。


「──「愛するということ」は、読み進めていただけていますか?」

『はい。すごく興味深くて、じっくり読んでいます。』
『特に冒頭の、"愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない"という部分が、ほんとに衝撃的で……。』

「……そこに引っかかってくれたのであれば、十分よく読めています。安心しました。」
「今日は、この課題に取り組むにあたって留意していただきたい点をお伝えしたく、お電話しました。」

「Xさんは、普段読書をされるときは、どのようにそれを読みますか?

『どのように……。普段は文学を読むのですが、どのように読むかはあまり考えたことがなかったかもしれません……。』


例えば、それが技術書や解説書であれば、読者は"学ぼうとする"だろうし、それが物語や文学であれば、読者は"観賞しようとする"でしょう。これを、わたしは受動的な読書と呼んでいます。そして、これとは対を為す態度──、もう1つの"本"との向き合い方があるのではないか、わたしはそう考えています。

「言うなれば、それは"能動的/主体的な読書"です。」
「Xさんには今回、これをしていただきたく思っています。」

『主体的な読書……』

「この本は、エーリッヒ・フロムという人物の主張をただ記載しているだけのものではなく、いわば介在としての機能を果たすものです。"わたし"と筆者を繋ぐ中継点が、ここにある一冊の"本"であると理解してください。」「であるからこそ、これに対して、能動的/主体的に関わることは間違いなく可能であると考えます。」

「この本に書かれている内容と、ご自身の体験やお考えを相対化しながら読んでみてください。」
「本に書かれている内容の全てに賛同していただく必要はありません。ここはわたしの考えと同じだ、ここはちょっと違うな、そういった気づきの1つ1つを大切にしてください。最終的にはこの本を1つの人格として捉え、"わたし"と"あなた"を照らし合わせて、全く新しい価値を見出すことができれば、この課題は成功と言えるでしょう。」

『……わかりました。少し難しそうですが、意識してやってみます。』

「ありがとうございます。」
「やっていること自体は、いままでの課題の単なる延長です。自身にとって深い意味を持つキーパーソンとの間に存在する関係性を自覚し、その先で学校の同級生や周りの人たちとの実りある関わりを構築し、いま、そのさらなる先で、会ったこともない他者とも、"本"を用いて交流する。」
「この読書を通じて、確かな糧を得ていただけると嬉しいです。期待していますね。」

同じ弦の調べが響いていることに、気づく。

その後、Xさんの足のお怪我の様子も鑑みながら、ヒアリングの日程を決定しました。この日程調整に際しては、何よりもいまは療養に専念していただきたく思っていることをXさんにお伝えし相談した結果、お会いするまでの期間は普段よりも長めに取ることとしました。結果的に、読書をする時間もたっぷりとれてよかったです、とXさんからもご好評をいただきました。

迎えたヒアリング当日。
Xさんはゆっくりではありますが松葉杖なしで歩けるまでに回復しており、またパラメーターの効果もあってか、お気持ちも安定しているご様子で安心しました。


「さっそくですが……、課題ノートを見せていただけますか?」

『はい!いっぱい書いてきました。』

「…………。」「……うん、よく読めています。……Xさん、よく読めていますよ。」

課題ノートのXさんの記述にざっと目を通してからそう評すると、それまでどこか緊張の面持ちでいたXさんのお顔が、ふっと緩みました。

『よかったです……。ちゃんと読めているかちょっと不安だったので。』
『あ、あと、第二章の「親子の愛」と「母性愛」の部分、読むのが辛くて飛ばしてしまいました……。』『母とのトラウマを思い出してしまって。』

「全然大丈夫です。」「むしろ、そこはわたしの配慮が行き届いていなかった点かと思います。」「いつも真剣に取り組んでいただき、ありがとうございます。」

下記に、Xさんが書き写してきてくださった箇所の一部を列挙します。

この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する──愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.3.

「ここが本当に衝撃的で、読み始めてすぐ、手が止まってしまいました。」

それまで赤の他人どうしだったふたりが、たがいを隔てていた壁を突然取りこわし、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯を通じてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間だ。それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人ならば、いっそうすばらしい、奇跡的な瞬間だろう。ふいに親しくなるというこの奇跡は、ふたりが性的に惹きつけあって結ばれる、つまり性的な関係から交際がはじまった場合のほうが起こりやすい。しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初はふたりともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまでふたりがどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.14-15.

「まるで自分のことを言い当てられているようで……、震えました。」

だとしたら、愛の失敗を克服する適切な方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.15.

「なんか、ここ美沙さんと同じことを言ってるって思って……、美沙さんのことを、思い出しました。」

人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受けとることになる。与えることは、他人をも与える者にする。たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのだ。与える行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝する。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.44-45.

「たぶん、美沙さんみたいな人のことを言うんだろうな……って思いながら、読んでいました。」

この同一性を体験するには、表面から核まで踏みこむことが必要である。もし私が他人の表面しか見なければ、ちがいばかりが目につき、そのために相手と疎遠になってしまう。もし核まで踏み込めば、私たちが同一であり、友であることがわかる。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.78.

「この部分って、美沙さんが教えてくれた"相対化"のことを言ってるんだ……!と理解できました。」

このことについて、シモーヌ・ヴェイユ〔二十世紀前半フランスの思想家〕は次のようにみごとに表現している。「同じ言葉(たとえば夫が妻に言う「愛してるよ」)でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.78.

「──正にこのことば通りの現象が、いまここで起こっていると感じました。」



主体性を持ち、自己の資源を用いて、相対化する営みとしての"読書"を通して、我々は果たして何を"知る"ことができるのか

"ことば"を辿るその道へ踏み出したときに、"わたし"がまず直面するのは、たった1つの疑問です。

──なぜ、この人は"わたし"と同じことを言っているのだろう?

この人の"ことば"が、いま、"わたし"の中で明確に響いている
その"ことば"は、ときにまるでど こ か か ら " わ た し " の こ と を 見 て い た か の よ う に 正 確 に "わ た し" を 描 写 し 、故に、その"ことば"が、"わ た し" の "内 側" ま で 届 く 

性別も、
国籍も、
生まれた時代も、
死んだ時代も、
何もかもが、本当に何 も か も が 違 うのに、
なぜ、この人の"ことば"は、なぜ、こんなにも、これ程までに、

──"わたし"の琴線に触れるのか

このとき、この奇跡的な現象が、当人の中でどのような声色で聴こえるのか。答えは1つに決まっています。


「「「あなたは、独りではない。」」」


"わたし"と"あなた"は、同じ"ことば"を共有している。
"わたし"と"あなた"は、同じ"道"を辿ってきている。
そして、その先の根源において、い ま 、確 か に 同 じ 景 色 を 共 に 見 て い る 。時間も、時代も、ありとあらゆるものを超えた先でいま、"わたし"と"あなた"は、"ことば"を介して繋がった。だから、あなたは、もはや独りではない。



世界との相対化
この現象を、わたしはそう呼んでいます。


なぜ、みんな揃いも揃って同じことを言うのか?

課題ノートのチェックを終えたあと、わたしはXさんに3枚の紙を手渡しました。

「実は、今日のために、昨夜とある文章を書いてきました。」

『文章……。読んでみてもいいですか?』

「もちろんです。」「読んでいただきながら、今回の課題と同様、ご自身のこころに響いてくる箇所を見つけていただき、該当箇所に下線を引いて教えてください。」「注意点として、この文章は最初の紙2枚で終わっています。最後の3枚目の紙はまだ見ないで、めくらずそのままにしておいてください。」

下記に、その文章を原文ままで提示します。
Xさんが下線を引いてくださった箇所については、太字でこれを示します。

言葉の共通性を軸に、われわれは他人に働きかけ、また他人からの応答を得ようとします。この意味において、語るというのは、他人のなかの自分との共通性に向けられたものだとひとまずは言うことができます。

しかし、語るということはそれだけにつきません。
自分から自分に向けられて語られるだけであるのなら、何も語るには及びません。語るというのは、自分の外に、他人に対して、自分の考えを言葉というかたちで提示することです。
 
しかしその場合、依然として自分なるものは漠然としたものに留まっています。このことをさらに、表現ということにからめて考えてみましょう。たとえば、テキストを読んでいて、何かこちらの思考を刺激するものが感ぜられはするが、それが何かを明確に掴めないことがあります。そんなとき、わたしたちはメモをしたり、図を描いたりしてみる。これは、漠然としたものにいわば言葉や、形を与えようという努力です。事柄の本質からして、言葉や形にすることができないものもあるに違いありません。けれども、それらをもなんらかの仕方で言葉にし、形にし、あるいは音にしようというのが、われわれの表現という行為です。そのとき、表現を形成する言葉なり、形なりは、自分に了解できるものでなくてはなりませんすばらしいアイデアが浮かんだと思い、それをメモしておいても、後からそのメモが自分にもまったく理解できないということがあります。これでは表現とは言えません
 
しかし、メモした自分とメモを読む自分、同じ自分なのに何故こんなことになるのでしょうか。メモをしているときの自分には確かに分かっていた。ですが、それは直接的に分かっていたにすぎません。厳密にいえば、対象化されることなく、分かっていると思いこまれていたのです。そのような思いは、まだ自分のものになっておらず、自分のものとするためには、それを対象化し、定着させる必要があります。このように、漠然とした思いに一定の論理性を与えることで、われわれは自分の考えを形成することができます。自分の思いという、ある意味で自分に最も身近なものも、論理性という自分の外部に託されることでしか、自分のものになりません。
 
表現は外部に晒されれば晒されるほど、明確なものとなります。つまり、他人との応答の中で、不明確なものが削ぎ落とされ、論理性が次第に増していくのです。こうして表現を支える論理は、自分の論理であると同時に他人の論理ともなります。自分の漠然とした思いつきが、形をとり、論理として仕上げられるためには、このようなプロセスを経なければなりません。言葉の共通性を土台として展開される語りかけの領域が、自分と他人との間に成立し、そのなかで表現の論理は彫琢されます。自分にだけ分かっていると感ぜられるいわば私的な思いつきは、実はもっとも漠然としており、他人と共有されたいわば公的な考えこそが、もっとも明確に自分の固有性を示すことができるのです。
確定した自分があって、その自分がすでに確定した他人に関わるというのではありません。最初は、自分も他人も漠然とした仕方であるにすぎません。だからこそ、お互いの共通の場所として言葉が選ばれ、そこにおける相互の働きかけを通じて、自分の姿と他人の姿とが明確な輪郭をもってくるのです。この、自分が自分に明らかになるという、一見すると不思議な過程は、自分というものの不安定で流動的な在り方を示していると思われます──自分が常に生成の過程にあるということです。
 
この生成を担うものは誰か。つい、われわれは担い手としての自分なるものを考えたくなってしまいます。しかし、そうではありません。生成にある在り方こそが自分であって、それと離れて担い手としての自分があるわけではありません。働き、そこにしか自分はないのです。したがって、働きにおける一瞬一瞬が新しい自分の発見であり、確認です。そして、この生成の場は他人との相互的な働きかけ合いによって開かれていきます。他人からの拒絶に出会うことも当然あります。ここでは、他人が自分の生成に不可欠の契機となります新しい自分に気づくのではなく、気づかされるのです。
 
自分は自分に留まっていては自分を発見できないし、そもそも留まるべき自分などというものはありません。確定しうるのは、これまで自分が辿ってきた足跡だけであって、その足跡さえ全体を見渡すことはできないでしょう。自分を見出すのは、他人との働きかけ合い、交流の中でしかなく、いわば、そこでわれわれは他人のなかの自分に出会うのです。こうして、自分に最も遠いものが自分であったように、他人が自分に最も近いものとなります。いえ、他人こそが自分を生みだしてくれるのです。

「──読んでいただいて、どう感じましたか?」

『……いままでnote記事に書かれていたこと、お電話で教えていただいたこと、こうしてお会いして話してくださったこと、一緒に考えてきたことを、改めて整理していただいた文章だと感じました。』『いま一度、内容をしっかり咀嚼しながら読めた気がします。』

「……ありがとうございます。ではここで……、」
当たり前のように見過ごされてしまった、"前 提" を 疑 っ て み ま し ょ う 。

『…………?』

「先ほど、わたしは"文章を書いてきた"と言いました。」
「しかしながら、"自 分 で 考 え た 文 章 を 書 い て き た" と は 言 っ て い ま せ ん 。」「接続詞や句読点の使い方、言葉尻の表現……、その他細かなところに、何かしらの違和感を感じませんでしたか?」

『感じました……!え?じゃあ……、』

「そうです。」「紙をめくって、3枚目の紙を確認してください。」




池上哲司(2014).『傍らにあること ─老いと介護の倫理学』株式会社筑摩書房 改編

「実は今日お持ちしたこの文章は、この本に書いてあった文章を、わたしが書いたように見せかけるために語尾だけをですます調に改編したものです。」

『……どこか美沙さんっぽくない文章だな……とは思いながら読んでいましたが、全然気がつきませんでした……。いつもおっしゃっていることと同じ内容だったので……。』


ここで、わたしはXさんに問いかけました。

「なぜ、みんな揃いも揃って同じことを言っているのだと思いますか?

「この"ことば"の奇妙な一致は、一体、何を表していると考えますか?

「──考えよう。」
「いま正にあなたが直面しているこの"事実"を、構造的に分析し、考えなければなりません。」「わたしが言うことはいつだって同じです。」「考 え ま し ょ う 。」

"ことば"とは何か?

「──つまりは、その"ことば"でしか言い表せない領域が存在している。」

"ことば"とは、特定の領域に存在する親和性の高い複数の概念を纏め上げて1つの形としたものであると考えています。

引用:2021/3/20公開記事
『救われる』って、一体どういうことだったんだろう?~あの日のカミングアウトを振り返る~
※画像をクリック or タップで拡大

そして、この領域にアクセスする行為のことを、"わたし"は"思考"と呼ぶ
この"思考"の結果、領域内の概念を任意の数だけ抽出し纏め上げたものが、"ことば"です。そしてこのとき、"あなた"の思考と"わたし"の思考が、同一の/もしくはその周辺に共存する親和性の高い領域に至れば、"ことば"が一致するという現象が起こる。わたしはこのように考えます。

例えば、

わたしが"内側"と呼ぶものを、
シモーヌ・ヴェイユは"人間存在の領域"と呼ぶ。

わたしが"内側"と呼ぶものを、
池上哲司は"自分の論理"と呼ぶ。

わたしが"内側"と呼ぶものを、そして、
──エーリッヒ・フロムは"核"と呼んだ。

※画像をクリック or タップで拡大

"ことば"が持つこの"構造"を知った者だけが、それぞれの"ことば"の表層で聞こえる音は違えど、その根音において、同じ弦の調べが響いていることに気づく"内側"を知る者だけが、彼らの"ことば"の真意を知る。逆に"外側"しか知らない者には、この"ことば"は、絶対に届かない

"内的"な変革を促す、ということ。

"わたし"と"あなた"の関係

第三者との共生

世界との相対化

この3つの段階を経るにつれて、"わたし"は、自分自身の"ことば"が、他者からの"ことば"が、加速度的にその明瞭さを増し、こころに響いてくるという洗礼を受けます。

結果として、"わたし"は自身の"内側"を強く自覚することとなります。
この人間的活動が極まった先で、"内省"という名前の扉が初めて開きます。そして、この内省の積み重ねが、"わたし"を哲学へといざないます

たとえそれが日常の中で生じる些細な問いであったとしても、それを根源において徹底的に問うてみれば、"わたし"は深奥への道を進むことができます。

"わたし"はいま"何処"にいる?
"わたし"は"何を"願っている?
"わたし"はなぜ──"生きている"?

「愛」は、いわば起点に過ぎません。

本、「愛するということ」について、YouTubeを始めとしたネット上には数多の解説が存在しています。しかしながら、それらの多くは「この本にはこういうことが書かれています」「愛に対するエーリッヒ・フロムの主張はこうです」「これを恋愛テクニックとして活かしましょう」といった表層をなぞる内容に終始するばかりで、わたしからすれば、それはあまりにも浅すぎる理解であると言わざるを得ません

この本のテーマは「愛」であって、しかしながら「愛」な ど で は な い 
これは、そのような程度の低い解釈で留まるような代物ではない。読了後、あまつさえ「愛についてよくわかりました」などと言うようであれば、それは「結局何もわかりませんでした」と告白しているに等しい。
「愛」は、ただの起点に過ぎない。「愛」を起点として、"わたし"は"人間"を知る。"存在"を知る。"世界"を知る。"ことば"を知る。そしてこの"ことば"を軸に、"わたし"は"わたし"を変性させることすら可能なのだということを、"""知る"""

"わたし"を知る。"あなた"を知る。"枠組"の中で、「"わたし"は独りではないのだ」、と知る。「"わたし"と"あなた"は確かにわかり合えたのだ」、と知る。だから、"わたし"の"思考"と、これに基づいた在り方には、「確かに価値があったのだ」、と知る。──最後、この世界に、《わたしの居場所がある》、と"""知る"""

この瞬間。
魂の次元において、文字通り"自己肯定"という名の営みが、"結 実" す る 

だからこそ。
あのとき、『生きててよかった』という"ことば"が、あなたの一番奥底から、"内側"から、溢れ出してきたのでしょう。

あなたの"それ"は本当に、《救い》と呼べるのか?

この世界に救いというものが存在するのであれば、それはきっとこうした営みのことを言うのだろう、と思います。

※画像をクリック or タップで拡大

己から始まり、まずは"あなた"と、その先でより多くの"あなた"と、遂には果てで"世界"と交わり、そして最終的には"わたし"へと回帰する

『救われる』ということは、

《中略》

その過程のほとんどで他者からの助けを必要とはしますが、最終的には個の中で完結する営みです。

引用:2021/3/20公開記事
『救われる』って、一体どういうことだったんだろう?~あの日のカミングアウトを振り返る~

そしてここで、明確に、構造的に、"わかること"がたった1つあります。

自分を救うことは、
自分にしかできません。

わたしは、最初から、
ずっと、
ずっと、
ずっと、言ってきました。
何度も、何度も、何度も、何度も言ってきました。

心の底から、伝えたいことがあります。

自分を変えることができるのは自分だけです。

引用:2019/8/6公開記事
「わたしは、生物学的には男性です。」─カミングアウトをして分かったこと─

そしてもう1つ。
自分を救うことは自分にしかできません。

引用:2020/12/19公開記事
【2019年~2020年 総括note】「わたしは、生物学的には男性です。」-"中性"として生きた中でわかった1つのこと-

わたしには、誰かを救ってあげることなんてできません。
なぜならば、自分を救うことは自分にしかできないことだからです。

引用:2021/3/20公開記事
『救われる』って、一体どういうことだったんだろう?~あの日のカミングアウトを振り返る~

"聴いて"ください。

自 分 を 救 え る の は 、自 分 だ け で す 

まずは自分の"内側"と向き合い、ほんの欠片でもいい、内的な価値を見出すこと。ここから始めなければ、何も始まりません。何も変わりません。
……しかしながら、自分の"外側"に何かを求めようとする人が、あまりにも多すぎると感じています。

価値、目的、愛、賞賛、生きがい、そして人生の意味でさえ──、彼ら彼女らは自身の"外側"に求める。"与えられる"ものだと勘違いをしている。自分の"内側"には何もないと決めつけ見ようともせず本当に大切な自分自身には盲目であるにも関わらず、血眼で"外側"にだけ手を伸ばす──暴力、酒、ドラッグ、覚醒剤、ギャンブル、自傷行為、逸脱行為、浮気、不倫、援助交際、パパ活、宗教、イデオロギー、陰謀論、占い、スピリチュアル、過度に先鋭化したオンラインサロン、マルチ商法、ネットワークビジネス……。

それはつまり、自分を信じていない、ということです。

"外側"に縋る彼ら彼女らは、よく「わたしは救われた」と、言います。
この"ことば"を、本当に簡単に、軽々しく口にします。

例えば、
この曲を聴いて、"救われた"。
推しに会えて、"救われた"。
ライブに行って、"救われた"。

──「○○に、わたしは救われた。」と言います。

なぜなのだろうと、わたしは考えます。
あなたは"救 わ れ た" は ず な の に 、なのになぜ、い ま も ま だ そ ん な に 苦 し そ う な 顔 で 涙 を 流 す の だ ろ う と、わたしは疑問に思います。

"救われた"と言うのであれば、救 わ れ て い な け れ ば お か し いです。
"救われた"のであれば、リストカットも、OD(オーバードーズ)も、過食嘔吐も、その他全ての自傷行為/逸脱行為が、止 ま っ て い な け れ ば お か し いです
"救われた"のであれば、自身に対する無価値感も、絶望感も、希死念慮も、その全てが払 拭 さ れ て な く な っ て い な け れ ば お か し いです

その日「救われた」と涙を流したはずであったにも関わらず、一週間後、また手首を切ってしまったのであれば、それは、断 じ て 救 わ れ て な ど い ま せ ん
「この曲に元気をもらった」と言うのならわかります。「推しに励まされた」と言うのならわかります。「ライブに行って感動した」と言うのならわかります。でも、救 わ れ て な ど い な い の に 、「 救 わ れ た 」 と 言 っ て し ま っ て は 、ダ メです。

あなたが縋っている"それ"は、本 当 に救いなのですか?
もしかしたら、──"それ"は、呪 い な の で は な い で す か?

他人からの施しでいとも簡単に救われてしまうほど、あなたを数年、数十年にも渡って苦しめ続けてきたものは、そんなにも"軽かったのですか"?



──それはあまりにも、自分自身の価値を低く見積もり過ぎです。


だから。
「わたしがあなたのことを救ってあげるよ」なんて言葉は、絶対に、絶 っ 対 に 、言 っ て し ま っ て は い け な い 言 葉 な ん で す 。それは人間の"尊厳"を、その"魂の可能性"を、あまりに軽視した発言です。
もしもそのような甘言を口にする人があなたにすり寄ってきたときには、警戒レベルを最大まで上げてください。間違いなく、その人間は嘘をついています。間違いなく、その人間は、悪 魔 に 魂 を 売 り 渡 し て い ま す

「救われる」ということについては、どうも致命的な勘違いが存在しているように思えてなりません。
それは決して動的で、華やかで、感動的で美しい営みではありません。救う側/救われる側の二者関係で成り立つ営みなどではありません
実態は違います。全くもって違っています。
『救われる』ということは、もっと静的で、格好悪くて、滑稽で、ときには正視に耐えないほどに泥臭い営みです。もちろんその過程のほとんどで他者からの助けを必要とはしますが、最終的には個の中で完結する営みです。救う側などはなから存在していません。

言うなれば、全員が救われる側です。

"静"と"動"。

『生きててよかった。』

いま、あなたの"内側"にじんわりと沁み込み、こころに優しく触れて全てをあたたかく包み込み、充足感を与えてくれているこの感覚──その"刺激"の性質を述べるとするならば「"静的"である」、と言えるでしょう。

その人の人格と魂を真に護り、生命の"内側"に無尽蔵の活力を与えてくれるものは、この"静的"な刺激以外には存在しません

だから、わたしはあなたの"そこ"に訴えかけ得る方法と手段を必死に模索し、考えて、考えて、考え続けて、ときにどのような手段を用いようとも、この目的のためだけに、自身の持ち得る全ての"資源"を、使った

──ここで、わたしは1つ、問いかけをしましょう。

「あなたにとって、劇的な経験とはどういったものを指しますか。」

これに対する答えは、"静的な刺激"を知っているか否かで大きく分かれます

劇的な経験とは、例えば、
自殺未遂の経験があることでしょうか?
非行歴/犯罪歴があることでしょうか?
あるいは──浮気や不倫に溺れた経験があることでしょうか?

わたしは違うと思う。
確かに、劇的ではあるのかもしれない。けれど、それは"形だけ"が劇的なのであって、それ単体にはいかほどの機微も洞察も含まれていない

「表現者」や「活動者」を名乗る者の中でも、こうした種類の"劇的な経験"を用いたセルフブランディング事例は枚挙にいとまが無くて、わたしは、それが、とても、とても怖い。そうした者たちの"ことば"を、一度よくよく聴いてみるといい。それは確かに激烈で、あなたの身体に突き刺さる"ことば"であるかもしれない。でも、それは"外側"から発せられた無秩序で無軌道な"ことば"にしか過ぎないから、哲学は疎か、思想の域にすら達していない。だから、そうした者たちの発信や表現には、炎上が絶えなかったりする

だって、例えどれだけ強い言葉を使うことができたって、それは決して"強さ"などではないんです。

引用:2021/3/20公開記事
【2019年~2020年 総括note】「わたしは、生物学的には男性です。」-"中性"として生きた中でわかった1つのこと-

自分に自信がないからこそ、強い言葉に、攻撃的な言葉に頼ってしまう。
確固とした自己を確立できていないからこそ、強迫的な観念やイデオロギーに縋ろうとしてしまう。

気持ちはわかるんです。
そういう人を見たときに、「強そうな人だな」と思う気持ちはわかるんです。そういう人に対して、ある意味憧れに近い感情を持ってしまう気持ちもよくわかるんです。「自分の代弁者として声高に訴えてほしい!」と思ってしまう気持ちもとてもよくわかるんです。

でもどうか、どうか騙されないでほしい。
何でもかんでも噛みついて、攻撃して、炎上してる人なんてこれっぽっちも強くない。格好良くなんてない。

わたしは今になって理解しました。
本当に強くて格好良い人は、ちゃんとあなたの方を向いてあなたの目を見てあなたにわかる"ことば"で真摯に物事を語ってくれる人です。感謝を伝えようとするとき、謝罪しようとするとき、そして、愛を伝えようとするとき、目の前の"人間"に対して、曇りのない真っ直ぐな"まなこ"で相手を眼差し、嘘偽りのない心の底からの想いを伝え、ナマモノたる"ことば"を御すことができるかどうか。ここで、その人間の真価が問われています。



自分の"外側"を「"動的"に」かき乱されることに、意味を見出そうとする人が本当に多い。

手首を切ってみたら痛かったから、何かが変わったような気がする。
情欲に狂ってとことん奔放になってみたら、何かが変わったような気がする。道徳、倫理、礼節、全部やけになって蹴り飛ばしてみたら、何かが変わったような気がする。

でも、本当は何っにも変わっていなかった。ただただ、何 か が 変 わ っ た よ う な 気 が し て い た だ け 

"動的な刺激"は、あなたの"内側"までは届いてくれない
"動的な刺激"は、あなたの"内側"を癒してはくれない
だから、"静的な刺激"こそを自分自身の手で司る必要がある

このことを、エーリッヒ・フロムもまた同じように指摘していたのだと、わたしは思う。

これらの活動すべてに共通しているのは、達成すべき目標が自分の外側にあるという点である。そこには、活動の動機は含まれていない。たとえば、強い不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。
いっぽう、静かに椅子にすわって、自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、「受動的」と言われる。だが実際は、精神を集中した瞑想は、きわめて高度な活動である。内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動である。

エーリッヒ・フロム(1956).『愛するということ』(鈴木昌訳)株式会社紀伊国屋書店 pp.40.

こころの"内側"を強く打った洗 礼 的 儀 式のことこそを"劇的な経験"と呼ぶべきであると、わたしはここで強く主張します。

"静的"であったとしても、十分に"活動的"だからこそ、その営みはあなたの心の奥深くに根を下ろす。そして、やがては"確信"と呼べるところにまで到達する。

だから。

「──Xさん。今日、なぜわたしがここに来たか、わかりますか?」


『美沙さんが、わたしのことを大切に想ってくれているからです。』


この日、Xさんは、それはとても美しく瑞々しく響く"内側"からの"ことば"で、わたしに答えてくれたのだと思います。

──気がつけば、あの冬の日から既に4ヶ月が経過していました。

※画像をクリック or タップで拡大

5ヶ月目

感覚値から⇒理論値へ。

残り、2ヶ月。
あの冬から始まったこの旅も、いよいよそのゴールが見えつつありました。

内的な革新を遂げつつあるXさんを今度こそしっかりお支えし、そのお気持ちのわずかな変調も見逃さぬようパラメーターにも細心の注意を払いながら、わたしはより一層気持ちを引き締めてこれに臨みました。

本、「愛するということ」の読書課題を終え、Xさんに新たにお出しした課題は次の通りです。

「──Xさんには、今回、"日常の領域"から"哲学的/観念的な領域"へ踏み込むトレーニングをしていただきたく思っています。」

『哲学的な領域……。』

「その具体的な方法としては、いつもの課題ノートを使います。」

Xさんから課題ノートを一度お預かりし、わたしはページにペンを走らせました。

「……この課題ノートを一緒に買った日、これには2つのことを記録していくとお伝えしたかと思います。1つ目は、毎回の課題の内容と結果の記録。そしてもう1つが、ご一緒していく中でのXさんの経過を示す記録。」「この後者を、いまから始めていきます。これを整理し記載する作業が、そのまま今回の課題となります。」

「まずは、これまでご一緒してきた4ヶ月間を1ヶ月毎に区切り、
・その間に起こった出来事
・それを受けて自身に生じた感情
・その他日常的な自身の言動
を箇条書きで列挙していってください。ノートの1ページを1ヶ月分とし、つまり、計4ページに渡って記載することとなります。」「この記載作業については、後ほどお電話でお話し2人で振り返りながら一緒に行いましょう。Xさんの記憶だけでなく、Xさんをお側で見てきたわたしの記憶も組み合わせることで、より正確かつ詳細な記録となります。」
「"価値"と呼ばれるものは連続性の中で育まれる、と以前お話しました。」「つまり、この課題は、ここに4ヶ月という中長期的な時間軸を設定し、この連続性の中で確かに育まれた"価値"を、Xさんご自身で"構造的"に認識していただく作業となります。」

誰とどこに行っただとか、こんなことがあっただとか、それら1つ1つは本当に取るに足らない小さなエピソードです。
でもそれらのエピソードの1つ1つが集まったら、それはやがて章となり、そしていつかは大きな大きな物語へと姿を変えていきます。
その物語は紛れもなく"わたし自身を表す物語"です。
だからこそ、その物語の背景には必ず"わたし"というテーマが生まれる。

引用:2019/10/15公開記事
女性の格好で暮らしてきた6年間の全てを「自分史年表」にまとめました。

本課題の考案においては、過去の「自分史年表」制作時の自身の経験を主たる材料とし、現在の成長した自身の力量を以て、これをさらに発展させ組み上げました。

その最終的な目標は、"ことば"の生成です。

6ヶ月分の記載内容が揃えば、次にこれを、精査します。
一度全てを解体し、関連性のある事柄やセンテンスを括り直せば、そこに"概念"が生じます。ここでは、複数の"概念"が生まれてくるはずです。この"概念"についても同様に精査してみれば、結果、より大きな枠組としての"領域"が可視化されることとなります。

※画像をクリック or タップで拡大

最後、その"領域"の上位存在たる"ことば"が、あなたの"内側"から自ずと出てくるはずです。これを用いて各"領域"を纏め上げ、統括しましょう。この際、出てくる"ことば"は全く新しいものであってもいいし、課題ノートに列挙してきた"ことば"の再発見/再使用であってもいいです。ただ、後者となる可能性が非常に高いです。

※画像をクリック or タップで拡大

──この世のあらゆる全てのものは、拠り所の上に立ってこそ、初めて"意味"を持ちます。"価値"が生まれます。これは"ことば"の生成においても同様です。
あなたの"内側"から紡ぎ出された"ことば"は、単なる文字の羅列ではなく、良質なテキスト/文脈によって保証されたものでなければなりません。これが果たされたときにのみ、それは血肉の通った"ことば"となるとともに、再現性が明確に担保されることとなります。

今回の課題は2人で完成させるものである、ということは既にご理解いただけているかと思います。

Xさんの体験と、わたしの経験を組み合わせて、あたらしい"ことば"を生み出すこと。あなたの"資源"とわたしの"資源"を組み合わせて、統合的価値を創出すること。わたしたちが"生きていること"の意味は、神髄は、そこにしかありません

哲学的/観念的な領域から持ち帰った"ことば"は、あなたの人生における目的となります。一緒に頑張っていきましょう。


忘れないでください。

あなたは、"愛されている存在である"ということを。
あなた自身の"価値"、"資源"、"生命力"を。そして、それらを獲得したときの無上の喜びと感動の全てを────、

どうか、
"忘れないで"ください。

"わたし"を構成するその全てを、何があろうと、絶対に、"忘れない"。

その後、Xさんと電話の日程調整を行い、この課題に一緒に取り組みました。

こちら側では、わたしがいままでXさんとご一緒してきた中で作成した/用いた全ての資料を広げ、そして向こう側では、Xさんが課題ノートを広げました。

「──では、Xさん。」
「いままでの4ヶ月間の全てを、"思い出しましょう"。」

『はい。よろしくお願いします。』

一番最初は、あの長い音信不通の末、もう一度お会いしてXさんから全てを打ち明けてもらった1回目のヒアリング当日のこと。

「あの日。"Xさんは恋愛関係に依らずとも、健全な人間関係を築くことができる"、思えばこの"ことば"から、全てが始まりました。」

『……本当に、あのときのことばが、大きな転機だったと思います。』『実は、あの日行くときはすごく足が重くて……、なんとか頑張って行ったのですが、帰りはほんとにルンルンな足取りでした。』『嬉しかった。』

「ありがとうございます。」
「そのお気持ち、忘れないうちに1ヶ月目のページのところにすぐ記載しておきましょう。」「どんなに小さなことでも、出来事/感情/発話/疑問の発露、これらの全てを記載していくことが、今回の課題を完遂させるうえでは何よりも重要な作業となります。」

『わかりました。……美沙さん、ばっちし書きました!』

日常を分析し、あらゆる"ことば"を洗い出し、列挙し、その全てを、"本質的な意味合い"を、わたしたちは"思い出して"いきました。

『いま、昔の自分が病んだときに書いていた文章やブログを読み返してみると、自分でも「何言ってるんだろう」って思っちゃいます……。いや、いまでもまだたまに病んじゃったりはするんですけど……、』『音楽系の学校で、感受性の強い人が集まっているからなのかもしれませんが、同級生にもすぐ病んじゃう子、多くて。』『インスタのストーリーに「死にたい」とかすぐ上げちゃう子とかいるんですけど、なんか、段々とそういうのを受け入れ難くなってる自分がいて。これは果たしていいことなのかはわかりませんが……。』『でも、引っ張られなくなりました。』

『親友から、「変わった」って言われたあの日のことが、やっぱりいまでも忘れられないです。』『本っ当に嬉しくて。』『美沙さんが言ってくれた、人との関わりが自分の成長のために必要なんだってこと、あれが自分の身に起こったことにも、本当に驚きました……。』『本当に嬉しかったんです。』『……でも、だからこそ、あのあとケガして、日本語が喋れなくなっちゃって、ぐちゃぐちゃになってしまったのかもしれません……。』

……あれは、お互い辛かったとは思うけど、でも、必要なことだったんだと思うよ、わたしはそうお伝えしました。



この4ヶ月間、本当に濃密な時間を過ごしてきたから、互いに時間を忘れて話と作業に没頭してしまって……、結局1回の電話では全ての振り返りを終わらせることができず、その翌日もお電話をご一緒し、計2回の電話でこの課題を完成させました。

「──Xさんが途中でもう一回音信不通になっちゃって、電話したときは、どんな気持ちでいた?振り返れそうかな。」

『……お恥ずかしいことに、あのときは泣きじゃくっていて、気持ちもぐちゃぐちゃで、正直自分でも何を言ったのかあまり覚えていなくて……。』『でも、美沙さんはわたしの命綱なんです、頑張ったって言って死にたいです、って言ったことはちゃんと覚えています。』

『……音信不通、自分はほかの人に対してよくやるくせに、逆に自分がそれをされたらめちゃくちゃ不安になるんですよ、わたし。』『同級生に事務連絡のラインするときとかも、既読がついたか何回も確認しちゃったり、返信に絵文字がなかったりいつもあるスタンプがなかったりしたら、怒らせちゃったのかもって不安になったり。』『でも、それってすごい幼稚で自分勝手だよなって、思います……。』『いま美沙さんと一緒にパラメーターを続けていますが、たぶんいままでで一番、人ときちんと連絡を取り合うことができていると思います。』『午後のレッスンが長引いちゃって、何度か反応が間に合わなかったこともあったけど……。あのときは、ごめんなさい。』

『あと、いまさらかもしれませんが、わたし、ほんとはめちゃくちゃ言葉遣いが汚いんですよ。』『美沙さんの前ではずっといい子にしてたけど……。』『Twitterの裏垢、全部で9個持ってるんです。鍵垢で、誰にも言えないことをつらつら書いてて。……恥ずかしいんですけど、美沙さんのことも書いてたんです。』『会ってお話をして、楽しかったから、よく書いてました。』

そのツイートの中から、いくつかのスクリーンショットをXさんはわたしに見せてくださいました。これについてはそのものの提示はしませんが、ツイートの内容だけいくつか列挙します。

“会うたびに人生相談してる”

“頑張れ脱メンヘラ あの方の前では受容は素直なんだよなぁ(なお話は嘘ばかりの模様)”

“口から出任せ虚言女だけどシラフであそこまでニコニコ喋ることないです”

“今しか出来ないって思わなかったら、一生憧れで終わっていたのかも。”

言葉遣いが汚いと言うから、わたしは一体どんなことを書かれているんだろう……と一瞬不安がよぎったのですが、読んでみれば何のことはない、そこにはただただ、飾らないXさんがいらっしゃるだけでした。誰にも見られないフォロワー0の鍵垢でこれを書いてくれていた、つまりこれは純然たる本音であって、だからわたしは本当に嬉しかったんです。

「……Xさん、なんで、わたしのことをそんなに信用してくれるの?」

わたしはお聴きしました。

『なんで……。』
『言葉が綺麗だから、あ、これは単に言葉遣いが綺麗という意味じゃなくて、響く言葉が綺麗だから、』『美沙さんのツイート内容とか、note記事に書かれていることとか、よくスクリーンショットを撮ってあとで読み返したりしてるんです。』『ごめんなさい、答えになってないですね……。』

「ううん、ありがとう。」「すごく、嬉しいよ。」
「言葉、か……。」「わたしは……、自分の信じることを、ツイートでもnote記事でも真摯に書いているつもりだけど、正直、きれいごとを言っている自覚はあるの。」「でも、なんで、Xさんはそんなきれいごとを聴いてくれるの?」

『……美沙さんが言ってくれることだからです。』
『例えば、同じことをわたしの母が言ったとして、わたしは絶対に聴かないと思います。』『美沙さんが言ってくれることだからこそ、意味があるんです。』

『「愛するということ」も、あれを読んだことで、さらに、もっと、美沙さんのことを信じたいって思いました。』『だって、同じことを言ってたんだもん。』『読破したら、読書感想文書きたいなって思ってるくらい。』『文学だけじゃなくて、わたしも、人生の中でああいう本にたくさん出逢ってみたいです。』



──2日間、総計7時間。
此処に至った道のりを辿った、全ての振り返りが終わりました。

「Xさん、本当におつかれさまでした。」

2人とも、達成感に溢れていました。

『おつかれさまでした……!楽しかったです。』

「Xさん、」
わたしはお聴きしました。
「いま、どのようなお気持ちでいますか?」

『…………頑張ったな、わたし、って思います……!』
『なんか、いますごく楽器の練習がしたい気分です。』『思いっきり演奏したいですっ!』

「そっか。そう言ってもらえると、すごく嬉しいです。」


そして、わたしは、指摘しました。
「──Xさん、頑張った、って言えましたね。」

『…………。』

頑張った、って言ってから死にたい。」
「それが、あの日電話でXさんが言ってくれたことです。覚えていますか。」

『……はい、覚えています。』

「いま、Xさんは頑張った、って言えた。」「そして、頑張った、って言えたあとに、死 に た い と は 続 か な か っ た 。」「これを、覚えておいてほしい。」

いま、"ここ"で、何が起こっているのだろう?


中長期的な時間軸を設定し、自身の取った全ての行動──すなわち、"事実"を列挙する。

「今日のこの作業はここで終わりにせず、残り2ヶ月間、最後の日まで続けていってください。」「再度申し上げますが、最終的な目的は"ことば"の生成です。」「では、その道中の区切りとなるここで、いま示されたものについて一緒に考えてみましょう。」

「Xさん、……頑張った、って言えるようになりたかったのでしょう?」
「そしていま、頑張った、って言えた。」
この過程と変遷が示しているものは何か、わかりますか。」

『…………。』



可能性。」



あなたには可能性がある、ということが示されている。」
「あなたには、可能性がある。すなわち、"いま"を変え得る力を、あなたは持っている。」「これが、"示されている"。」

「であれば、これを"認めよう"。」
"わたし"は、今日"頑張れた"⇒から、明日も"頑張ってみよう"。」「そう考えよう。」「わたしが言うことはいつだって同じです。」「"ことば"を、特定の場面においてのみ当てはめるのではなく、"相 対 化" し て 用 い る 。」「相 対 化してください。」

未来への意志を、いまこそ示す。
「3年後、5年後、自分はどうなっているんだろう。」「そのとき、自分は、何を"頑張って"いるんだろう。」「Xさんには、それを自由に描いてみてほしいのです。」

『……そんなこと、考えたこともありませんでした……。』


──いま、"ここ"で、何が起こっているのだろう?

"わたし"と"あなた""ことば"を交わすことで、"あなた"の"内側"に、いま、"資源"と呼ばれるものが明確に芽生えた。──じゃあ、それを成し得た、この"ことば"とは、一体何?
わたしたちは、た だ 空 気 を 震 わ せ る と い う だ け の 行 為で、一体"何 を"生み出すことができるの?

考 え て ほ し い 

「──わたしは、あなたを殴らない。」
「この4ヶ月間、わたしはあなたに対して、"動的な刺激"を用いたことは一度たりともなかった。ただただ、"ことば"を、"静的な刺激"のみを用いた。」「そしていま、Xさんが前を向いてくれた。」「……これこそがつまりは答えであると、わたしは思う。」

"事実"は誰にも否定できない。」「起こってしまった"事実"に対しては、その通りだ、と認めるほかないのだから。」

──もっと、あなたの可能性を見せてください。
電話の最後、わたしは祈りを以って結びました。

誘惑と拒絶。

その後、5回目のヒアリング当日を迎えるまでの間に起こった示唆的な出来事を1つ、ここに記しておきます。

その日、わたしはいつも通りXさんにパラメーターをお送りし、数時間後、Xさんから反応が返ってきました。マークは😢。前日までずっと❤が続いていたこともあり、一体何が起こったのだろうかと少し心配になりましたが……、まずは電話候補時間を提示し、Xさんのご都合と擦り合わせを行いました。

電話の時刻。
おかけすると、Xさんは少し興奮気味のご様子でした。

『夜分にお時間割いていただき申し訳ないです。』『実は──、』

というのも、今日突然、既に関係を清算したはずの浮気相手から連絡が来た、とのこと。

『今日会おうっていきなり言われて、しかも、当然会うでしょ?みたいな感じだったからなおさら頭に来てしまって……。そんなことするわけないじゃんって、朝っぱらからラインでバトルしてました……!』『もう、ほんとにムカつきます……!』

Xさんをやんわりとなだめながら、一連のお話を伺いました。

『……でも、たぶん、いや絶対、美沙さんがいなかったら、以前のわたしだったらきっとヨリを戻しにいっちゃってただろうな……って思って、……。』『その感謝もお伝えしたくて、今日は電話したかったんです。』

続けて、Xさんは、確かに、はっきりと言いました。

『もう、わたしは自分を自分で肯定できるようになってしまったから。』

ご自身の口で、わたしに促されるでもなく、明るい声で、何の淀みも抵抗もなく流れるように言ってしまったこの"ことば"について、深く重く考えてほしい。わたしはそうお願いしました。

「──お話を聴いていて、以前までとは明確に違う部分があると感じました。」
「以前のXさんでも、例えば既に他に新しい依存先ができていれば、今回のようなケースにおいてもこれを断っていたはずです。」「でも、今回は違う。」「Xさんは、内面的な自立を果たしたからこそ、毅然とした態度でこれを断ることができた。」「……そんなあなたを、わたしは誇りに思います。」

わたしは、本当に感動しました。

ご一緒する中で、あなたの人格的/内面的な成長に触れる度に、わたしは深く、深く心を打たれました。
何よりも、あなたがわたしを信じてくれたから、わたしはこの闘いにおいて、わたしの全てを賭けることができた。結果として、わたしも大きく成長することができた。

だから、感謝を伝えるべきは、本当はわたしの方なのだろうと思う。

人間的態度の練達

ここから先の展開は、別次元の様相を呈しました。


5回目のヒアリング当日。
この日はいままでの工程でXさんに踏んできていただいたステップについて改めて解説し、その確実な歩みを再認識していただくとともに、ヒアリング最終回にて到達すべきゴールを提示しました。

※画像をクリック or タップで拡大

前編/後編の折に触れて提示してきたこの展開図についても、このとき初めてXさんに提示しました。そのステップの1つ1つを口頭で丁寧にご説明するとともに、課題ノートにてこれを図式しました。

「──いま、Xさんはここにいます。」
わたしが指を差したのは、"社会 世界 枠組"の部分。まずは、この現状に至るまでのステップを一緒に振り返りました。

「現象として一番最初に起こったのは、"自己の再認識"。」「見えていたのに、見ようともしていなかった自分自身。これを自覚していただきました。」「これが、"自分とは何者か?"という根源的命題の発露を促すとともに、探究的態度の醸成へと導いたことは、既にご説明した通りです。」

「その次に起こったのは、どんなことでしたか?」

『改めて美沙さんとの関係性を自覚したり、親友に変化に気づいてもらったりしました。』

「その通りです。」「ここから、"相対化"と呼ばれるフェーズに入りました。」「自分自身の存在を明確に自覚したうえで、まずは自身にとって特別な意味合いを持つ相手からの"構造的承認"を得る。そして、"わたしとあなたの関係"を構築する。これが第一段階。」「次に、関わり合いの領域を広げ、より多くの他者と交わる。"第三者との共生"と呼んだこれが、第二段階。」「最後。本、「愛するということ」を主体的に読むことを通じて、"世界との相対化"を果たした。これが第三段階。」

「この"相対化"においては、何よりも段階を踏むことが重要である、ということはご理解いただけていますか?」

『…………。』

「もし仮に、「愛するということ」の読書課題をわたしがこの"相対化"のフェーズにおける一番最初の課題として出してしまっていたら、決してうまくいかなかったはずです。おそらく──、"読むこと"すらできなかった可能性が高い。」

『……わかる気がします。』『学校に1人だけいる友だち、彼女はずっと足の踏み場もないゴミ屋敷で育ってきて、いま摂食障害を持ってるんですけど……、この前、「この本おすすめだから読んでみて」って「愛するということ」を渡したら、前書きだけ読んで「わたしには合わない」って返されちゃいました……。』

「……ことばを"受容""理解する"ためには、まずは自身の"内的"な環境を整備しなければならない、ということでしょう。」
段階奥行き高さ。これが、"相対化"のフェーズを進めるうえで必須となる3つの要素です。段階を踏みながら関わり合いの領域を拡げ、この領域内に、奥行き高さといった次元/情報量を足していく。同時に、領域内で受ける"静的な刺激"も段階を経ながらその強度を増していき、"わたし"はこれを受容し得るだけの器を自身の"内側"に形成していく。」「そして最後、"世界"と呼ばれる存在を内的に知覚し受容することで、"わたし"は"資源"──自己肯定感/自己効力感──獲得する。」「いま、Xさんはここまで来ました。」

このとき初めて、わたしはXさんに自身が教員免許を所持していることを打ち明けました。「ちなみに、教科は何だと思いますか?」というわたしからの質問に対して、

『国語!!』『だって、とにかく説明が上手すぎて……、!』

と即答してくれたのは本当に嬉しかったです。ありがとう。
……先生にはなれなかった人生だけど、でも、Xさん。あなたは、言うなればわたしの初めての生徒でした。

あなたを教え導き、その成長を共に喜ぶ。
教師を志した人間として、これ以上の幸せなど、きっと存在しなかった。
"人間的態度の練達"と銘打ったあなたの内的な革新を、わたしはいま、ここに記す。

1.弱者からの脱却

──自分には"資源"がある。

いま、この"ことば"があなたの"内側"に根差した
ここで、これまで積み重ねてきた内的な"ことば"たちが、その真価を発揮します

「自分は〇〇ができる人間だ。」

わたしは独りではない。」

「わたしの周りには、わたしを支えてくれる人がこんなにたくさん居てくれる。」

この世界には、わたしの居場所がある。」



自分には、"力"がある。」──そう思えたのであれば、あなたはもはや"弱者"などではなくなっている"弱者"からの脱却が、既に始まっている。これを認めることで、わたしたちは初めて、この先に進むことができる。

※画像をクリック or タップで拡大

あなたが、いつか、いつかは幸 せ に な り た い と 願 う の で あ れ ば、必ず、絶対に、人生のどこかのタイミングで、"弱者/被害者"の立場から降りなければなりません"か わ い そ う な わ た し"決 別 し な け れ ば な り ま せ ん。でなければ、永 遠 にあなた自身の人生を生きることはできない。

しかしながら、これは降りようと"思えば"降りれるものではありません。決別しようと"思えば"決別できるものなどではありません。

その全てはできる/できないという"状態"の話であって、つまり根幹には『構造的な問題』が存在している、ということです。

《中略》

この"状態"というものをさらに深堀りし精査していけば、やがては当人を取り巻く環境の問題・あるいは当人の抱える内面的な課題──例えば自己肯定感の高低や成熟した自己愛の有無といったものに行き着きます。

《中略》

「それができない状態にあった」場合は、何をどうしようが本当にどうにもならないものです。
複合的な要素、すなわち"生きづらさ"と呼ばれるものに絡めとられて身動きがとれなくなっている状態にあるから。この"状態"を言い表すには、『構造的な問題』と呼ぶほかないでしょう。

引用:2021/10/18公開記事
『かわいそうなわたし』のままで終わらせるつもりなんて、ない。

実現のためには自分自身の"構造"を再構築/再構成し、それがで き る "状 態" に つ く り 変 え るしか方法がない。"内的な変革"を誘発するほか、術がない。
この結論に至ったからこそ、わたしは何度も、何度も、何度も、申し上げています。まずは自分の"内側"を眼差し、ほんの欠片でもいい、"内的な価値"を見出すこと。そこから始めて、精神的な土壌を耕し豊かにしていかなければ、絶対に道は拓かない

──これを為し得た人間は、も は や 意 識 す ら せ ず に、自らの"価値""力"をその心の底から認め、己が信じる道を歩き出しています。

2.責任の自覚と発生

自分自身の、確かな"力"を自覚する。

これは"内的な力"である故に、制御可能な"力"となる、という特徴を持ちます。つまり、自分自身でその"力"の把握──高さその効力が及ぶ範囲正確な測定が可能となるということです。このことが、"力"の適切な行使を支えます。

では、この"力"を把握/自覚した先で、一体何が起こるのか。

「──この"力"を、わたしは"どのように"使うべきか。」

行き着くのはこの思考であって、では我々は、この"情緒的な連動"のことを何と呼ぶのか。わたしは、Xさんに問いました。



『……責任、です。』

そう、つまり"責任"とは、「"外的"に課されるもの」ではなく「"内 的" に 芽 生 え る も の」であるということが、ここで明確に示されます。

※画像をクリック or タップで拡大

"弱者からの脱却"も、この"責任の発生と自覚"も、どちらも"内的な資源"が契機となり、当人の中で自然と促されるように起こる、というのが大きな特徴です。

虚飾──権威を自身の"外側"に求めること──に依らず、"内側"の資源をこそ用いるその姿勢は、他者への恫喝や糾弾といった攻撃的な態度とは決して結びつかず、自身の"力"を正しく畏れたうえでの自覚的/自戒的態度として表れます。これこそが、謙虚さ、誠実さと呼ばれる在り方の姿です。

"価値"も、"意味"も、そして"力"も、自身の"外側"に求めてはなりません
"外側"服従してしまうと、その奴隷に成り下がってしまうと、「自分は力を持っているはずなのに、なぜだかそれを実感できない」という現象が起こります

当たり前です。
それは"借り物の力"だからです。自身の"内側"のどこにも根差していない、"形だけの力"だからです。結果として、その人は常に不全感に苦しみ、苛まれることとなります。"力"に対する不信や疑問は、そのまま"自分自身への態度"へとすり替わり、当人の知らないところで不信が確実に進行します。

だから、いつまでたっても"救われない"
不信を取り戻そうと、"外側"の僕となり、他者への攻撃を執拗に繰り返し続ける。結果として、自身を愛することも、ましてや誰かを愛することなど到底できなくなってしまいます。……SNSの発達により、昨今ではこうした人たちの存在がより可視化されてしまったようにも思います。

「──責任を負うという行為は、わたしにとっての祝福です。」
なぜならば、それは自分で自分を認める/肯定するという"構造的行為"にほかならないから。もちろん、この責任によって"わたし"は縛られているわけでもありますが、逆にこの規律の中において、"わたし"はどこへでも行ける
つまり、人間は縛られているからこそ自由なのであって、制約の中においてこそ、その真の輝きを発揮します。

「だから、あなたとご一緒してきたこの5ヶ月間は喜びに満ちていたし、あなたの存在が、あなたをお支えすることが、わたしの生きる目的でした。」

人士となるか暴君となるか、"内的な責任"の有無がこれを左右します。

3.主体性の獲得

必須条件が揃い、いま、「主体性」と呼ばれる人間的態度が萌芽します

1.弱者からの脱却
2.責任の自覚と発生
3.主体性の獲得

この1. 2. 3.は相互に連動しているということを忘れないでください。最初は1. ⇒2. /3.と進行しますが、ある時点において1. ⇔2. ⇔3.という関係性が成立します。

※画像をクリック or タップで拡大

ここに至れば、我々は"与えることの喜び"をも構造的に理解することができます。

"与えること"とはつまり、「自身の"資源"や"力"を他者に行使すること」であるとご理解いただけるはずです。わたしたちは、"与える"度に、何度も、何度も、1. ⇔2. ⇔3.の中に立ち返ることができます。"与える"度に自身の中の"資源"に気づき、立ち返る度にその総量が増していることを実感し、「これをいかに使うべきか」と繰り返し相手のことを想い、尊重し、自身の責任を自覚し、畏れ、自分自身がいま確かにこの2本の脚で立っていることを確信し、そんな自分に対する心からの愛が生まれて、溢れ出してくる。そして。わたしたちは、互いのために生まれた命に、感謝する

──だからこそ、"与えること"は何よりも素晴らしいのです。
あなたの中で育つ"資源"こそが、あなたを肯定し、導き、救ってくれるはずです。だからどうか、どうか、大切にしてあげてください。



最後に。
わたしは、ここであなたが向き合わなければならない現実を、提示します。この行為を、残酷であると、不敬であると非難する人もいるであろうことを承知したうえでなお、それでも、わたしはこれを指摘しなければならない。



この世界に、神など存在しません。

"此処"に、"わたし"が、"""居る"""ということがわかれば──、すなわち神は"""居ない"""ということがわかります。
これは、常に逆説的に明示されます。神の存在を否定しようとするまでもなく、ただ"わたし"の存在を明確に根拠を持って肯定/証明してあげれば、それだけで事足りる

"わたし"を構成しているのは、この中長期的な時間軸の中で積み重ねてきた行動と、その結果たる"事実"のみであって、この累積の中に、神 な ど と い う 得 体 の 知 れ な い 存 在 が 入 り 込 む 余 地 な ど 1mm た り と も 存 在 し て い な い

この世界に、神なんて居ない。龍神、守護霊、高位の存在なんて、居ない。宇宙からのメッセージなんて、星の声なんて、お告げなんて、そんなものは──ない。

この世界には、"わたし"と、"あなた"と、厳然たる現実しか存在しない
変わりたいと思ったのなら、救われたいと思ったのなら、何かに縋るのではなく、自 分 で 決 意 し て 行 動 す る ほ か に 道 は な い

わたしが提示するのは、いつだって"事実"のみです。
でも、これは同時に"可能性"をも示唆しているのだと、どうか気づいてほしい。

最後の課題。


Xさんをお支えする最後の回となる翌月は、ヒアリングを2回実施することとしました。これを受けて、課題も前半/後半の2回に分けてお出しすることにしました。

この日お出しした前半の課題は、次の通り。

「先日お電話でもご一緒したXさんの経過の記録を、引き続き進めて完成させてください。今日も、明日も、次回お会いする日まで、ずっと。」「まずはこれだけに集中していただき、来月の前半のヒアリングにて、"ことば"の生成を一緒に行います。」

『わかりました。』『頑張りますね!』

「では、Xさん──、」
わたしは、最後にいつもの質問をしました。
「今日、なぜわたしがここに来たか、わかりますか?」

『美沙さんが、わたしのことを大切に想ってくださって、一緒に過ごす時間に価値を感じてくれているからです。』

もう既に、"内的な革新"は遂げられていた、と言っていいでしょう。

※画像をクリック or タップで拡大

6ヶ月目

Xさん。

今回お出しするこの一連の課題が、「最後の課題」です。

あの日から始まった、あなたとの歩み。悩んで苦しんで、少しだけ笑えたと思ったらまた泣いて、それでも最後には一緒に笑って振り返ることができたこの道のりを締めくくる、あなたとわたしの『最後の課題』です。
まずはこのことを心得てください──。

翌日、DMにてお礼をしたためるとともに改めて課題の説明を行い、Xさんをお支えする最後の1ヶ月間が始まりました。

パラメーターも引き続き活用しながら、わたしはそのお気持ちに寄り添い続け、日々をご一緒しました。

この中で起こった印象的な出来事を1つ、ここに提示します。

誰かを大切にする、ということ。

その日、返ってきたパラメーターが😢を示しました。
わたしは決まりに則って電話候補時間を提示しましたが、これに対してXさんからは次の通り返信が来ました。

『ごめんなさい、電話はできないです。』

『あと、しばらくの間、返信がおざなりになってしまうかもしれません。』『別に美沙さんのことが嫌いになったとか、連絡をとりたくないとかではないです。ごめんなさい。』

後から事情をお聞きしたところによると、このときXさんは学校の定期演奏会を控えた練習に励んでおり、その中でスランプに陥り深く落ち込んでいたとのこと。XさんのTwitterアカウントでも、『頑張った って胸を張って言えなかった』と書かれており、わたしは非常に心配していました。

これに対し、このときわたしは電話でお話をすることに固執してしまったことを反省しています。決まりに則るのももちろん重要なことではあるのですが、お恥ずかしいことにXさんからのDMに対して電話で折り返そうとするなど、いささか冷静さ/柔軟さを欠いた態度をとってしまいました。

しかしながら、わたしが一番着目したいのはこのときのXさんの態度です。Xさんのお気持ちが崩れることはこれまでも複数回ありましたが、このときのXさんの態度はいままでとは明らかに違っていました。
まず、パラメーターだけでは伝えることができない『電話はできない』という事情を、きちんとわたしに教えてくださったこと。さらに『返信がおざなりになる』であろうことを予測しこれもしっかり伝えてくださり、加えて『美沙さんのことが嫌いになったわけじゃないです』とわたしの気持ちも慮る対応までしてくださったこと。

わたしの態度と比べてみるまでもなく、このとき本当の意味で「相手を大切にする」ことができていたのは、Xさんの方でした。これについては、Xさんのお気持ちが持ち直したあと、改めてお電話をご一緒した際にわたしから謝罪するとともに、感謝をお伝えしました。

「至らぬ点も多々あるわたしですが、これからもあなたのお側でお支えし、ご一緒したく思っています。」
この謝罪をXさんも受け入れてくださり、本当に嬉しく思いました。

──失敗し、反省しながら、皆大人になっていきます。
たとえ大人であっても、間違えてしまうことは普通にある。その結果、ときには大人たる"資格"が揺らいでしまうことだってあるでしょう。でも、ここで本当に大切なことは、試されているのは、やってしまったことに対してどのような姿勢で向き合うのか、ということでしょう。
ここが、"子ども"と"大人"のいわば分水嶺となるのではないでしょうか。



申し上げます。
この世に、無謬の者など存在しません。

絶対的に正しい存在など、あり得ない
誰しもがどうしようもなく不完全で、それが当たり前なんです。わたしだって、今回のように選択を間違えてしまったことは幾度となくあるし、関わりの中で誰かを傷つけてしまったこと、裏切ってしまったことだって、本当にたくさんある。決して褒められた人間などではない。
そして……、Xさんだって、確かに被害者ではあるけれど、それでも、ほかの誰かにとっては加害者であったかもしれない。倫理的に正しいとは言えない行為をいままでに繰り返し続けてきたのだから、この可能性は限りなく高い。

これを指摘することは残酷なのかもしれない。
でも、それでも、それこそが人間であって、"世界"のありのままの姿です。

例えば事実としてわたしは"数的弱者"ですが、それを飛躍させて自分自身をこの世の中における"被害者"であると結論づけるのはあまりにも早計かつ極論だと言えるでしょう。

"少数者"や"弱者"、そして"不平等"や"被害"といった親和性の高い領域を一緒くたにして論じるのではなく、切り分けて認識する/考察することこそがとても重要な作業であるはずです。

引用:2020/12/19公開記事
【2019年~2020年 総括note】「わたしは、生物学的には男性です。」-"中性"として生きた中でわかった1つのこと-

無謬の者など存在しない。
性別/属性に関わらず、例外なく全 て の 人 間 が加害性を孕む。皆がときに傷つけ合い、それでも手を取り助け合い、そして愛し合う営みの結果としてのこの不完全な世界を、わたしはとても美しいと思う。

回復ではなく、「成長」をこそ目指す。

この頃から、関わりの中において、Xさんの行動には上述したような深い洞察的行為がよく見られるようになります。

※画像をクリック or タップで拡大

それは主体的存在としての自己を確立した後に見出した、社会的存在としての自己の姿であったと言えるでしょう。

自分自身の体験も踏まえた1つの確信として、その人が"生きづらさ"というものに囚われ、悲しみと絶望に沈み、こころの生活に支障をきたしているとき、あなたがそんな彼ら彼女らを支えたいと思ったとしても、その主訴──表層的な諸症状──をなだめるだけでは事態は一向に改善しないでしょう。

このとき援助者には、冷静を保ち、視野狭窄に陥らず、表層の奥に在る内実こそを注視し論じようとする態度が求められます。
しかしながら、彼ら彼女らが強く訴えてくる心的な不調/変調や、問題行動や逸脱行為の内情は必然的に激烈/苛烈なものとなり、これが援助者の思考を錯綜させ、援助を困難としていると考えます。

彼ら彼女らの話を、"聴く"必要があります。
囚われている"構造"こそを、"眼差す"必要があります。
彼ら彼女らは言います。必死に訴えます。「今日、こんなことがあって、つらかった」「またリスカしてしまった」「あの日のことを考えると、眠れなくなる」「死にたくなる」……。でも、これらのことば単体は、彼ら彼女らを理解し支えるうえでの重要な材料にこそなれど、指針を定めるだけの決定力は持ち得ない
彼ら彼女らは、ことばを話しているようでいて、その実、何 も 話 し て は い な い 。絶対に、核心には触れようとしない踏み込んでこない
だから、わたしは例えばXさんの恋愛遍歴の1つ1つを詳細に聞き出そうとしたり、Xさんが自分から話そうとする以上にリストカットについて掘り下げようとしたり、はたまたヒアリングの中で男女論を展開してみたりといった真似はしなかった。意味がない、と考えていたから。

真に見るべきは、聴くべきは、彼ら彼女らの"ことば"に整合性があるかどうか、そして"内的"な一致ができているかどうか、でしょう。
究極的には彼ら彼女らの"内側"に愛を根差し、"資源"を拡充させることで、"世界"との向き合い方を変容させていくことこそが最も大切であるとわたしは説きます。

※画像をクリック or タップで拡大

自分を愛せている状態でないと、言えない"ことば"があります。書けない"ことば"があります。響かない"ことば"があります。描けない"世界"があります。

"わたし"を自覚する──自身に制御可能な範囲内で、適切に喜ぶ/怒る/哀しむ/楽しむ──という生命を用いた行為に、"何か"宿る。他者と"内的"に通じることで、互いの中の"何か"芽吹く

『──これ、書きながら「わたし、ちゃんと文章書けてるじゃん!」って思って、感動して。本当に嬉しかったんです。』
後に、Xさんはそう言ってくださいました。

"言う"に始まり、"語る"という行為を経て、存在を"描写"する。
"ことば"は、この変遷の中で磨き上げられ、輪郭を得て成り立ちます。


「自分はどう在るべきか。」
「わたしは、あなたに対して何をすべきか。」

営みの中で、共感性が発露し、人間的態度が養われる。
やがて、素直さ、謙虚さ、誠実さ、──、すなわち"人間"として生きるために備わった能力の数々が連鎖的に開花する。

これを導いたのはひとえに"成長"であり、然るに、当人の身体的/精神的諸症状自体の回復ではなく"人格的成長"をこそ目指すべきであると、わたしは強く主張します。

それでも、人生にイエスと言う。


6回目。
迎えた最後のヒアリング、その前半。

この日の目的は、"ことば"の生成。
わたしたちの180日間を象徴するこの作業は、簡潔に、しかしながら同時に多大なインパクトを以って結論を得ました。

「──ではXさん、書いてきた課題ノートを見せていただけますか?」

『はい、頑張って書いてきました!』

そのお言葉通り、課題ノートはXさんの書き込みでびっしりと埋まっていました。

『いつも持ち歩いてるから、表紙ももうボロボロになっちゃったんですけど、それすらも何だか愛おしくて。』

見開き3ページ、計6ヶ月分の記録。
あの電話以降、Xさんご自身で進めていただいた直近2ヶ月分の記録にも目を通しながら、その記録とことばの1つ1つを改めて一緒に確認し掘り下げていきました。

1.自分自身のこと
2.人間関係のこと
3.友人関係のこと
4.音楽のこと


記録内容を精査し、関連性のある事柄やセンテンスごとに括った結果、最終的には大きくこの4ジャンルが示されました。この中から、ここではわたしは「音楽」を選択しました。

──練習日のこと、楽器を吹いているときの気持ち、自分の楽器の好きなところ、音楽について級友と論じたこと、それを受けて自分で深く考えたこと、実技考査で結果が出ず悔しかったこと、落ち込んだこと、悲しかったこと、でも、楽器を吹くのはとても楽しい、ということ。いよいよ目前に迫った演奏会のこと。音楽への愛、喜び、信念。
Xさんご自身のことばで、その全てが瑞々しく記されていました。

「音楽」。
──この"領域"を統括する上位存在としてふさわしいあなたの"ことば"とは一体何か、わたしはXさんに問いました。

『…………。』

Xさんは、長い間答えず、ただただ沈黙し考え続けていました。
それは決して答えに窮したという態度でも、皆目見当がつかないという態度でもなく、自分の言いたいこと/伝えたい想い/表明したい決意を寸 分 違 わ ず 正 確 に 言 い 表 せ る "こ と ば" を 懸 命 に 探 そ う と し て い る 態 度であり──、言うなれば、身体の"内側"で"ことば"を編み込もうとしている姿そのものでした。

『……もうちょっとで出てきそうなんですけど……、』『なんて言えばいいんだろう。』

Xさんからヒントを求められ、わたしはとある1枚のスクリーンショットをお見せしました。

「おそらく、いまXさんが言いたい"ことば"は、Xさんご自身が過去に書かれていたこの文章の中に、既に含まれていたはずです。」

『…………。』



『──やっぱり、音楽が好き。』

※画像をクリック or タップで拡大

そう、いまのあなたの気持ちは、この"ことば"でなければ言い表せられない。説明できない。描写できない。これ以外の"ことば"では、"何か"が決定的に、致命的に、足 り な い 。──これが、その"ことば"を"本 当 の 意 味"で理解する、という"感覚"です。

だから、言った。
あなたの"内側"から出てくる"ことば"は、全く新しいものであってもいいし、課題ノートに列挙してきた"ことば"の再発見/再使用であってもいい。
ただ、後 者 と な る 可 能 性 が 非 常 に 高 い で す、と。

「Xさん。」
「いつもこうやって会って話したり、電話で話したり、その結果Xさんの気持ちが上を向いたとき、あなたは決まって同じことを言うの。」「何て言うか、わかる?」

『…………。』

音楽がしたい、って言うの。」
いますごく楽器の練習がしたい気分です思いっきり演奏したいです、ってわたしに言ってくれるんだよ。」
「……だから、もう一回ちゃんと、心から言ってほしい。」

『……』


『美沙さん、わたし、やっぱり音楽が好きです。』


──ありふれた"ことば"であっていい。
本当に、本当に大切なことは、如何にしてその本質を司るかということです。

"内側"──哲学的/観念的な領域から持ち帰った"ことば"は、多種多様な"概念"を内包するが故に、それ単体を以て様々な事象を説明することが可能となる特徴を持ちます。つまりは、"相 対 化" し て 用 い る こ と が で き る 、ということです。

これを具体的に示すとするならば、1つ、「順接でも逆接でも使用可能である」という点が挙げられるでしょう。

あなたが喜びに満ちているとき、幸せを感じているとき。そして、心の底から音楽を楽しんでいるとき。『“だから”やっぱり音楽が好き。』と笑ってください。
逆にあなたが失意に沈み、絶望して、挫折してしまいそうなとき。どうしても音楽がうまくいかず、全てを投げ出してしまいそうになったとき。そんなときは、『”それでも”やっぱり音楽が好き。』と思い出してください。顔を上げてください。この"ことば"を胸に、もう一度奮起してください。
この"ことば"は、いついかなるときもあなたを内的に支えてくれる"ことば"="静的な刺激"となります。

他の人からすれば、それはなんのことはない、ただの言葉でしょう。
でも、あなたにとっては、あなただけにとっては、洗礼的な響きを持つ"ことば"であるはずだ。その価値は、あなたの"内側"──身体とこころが、誰よりも一番よく知っている。


そして。
我々"人間"は、ここに至り、"ことば"を「忘れる」という行為の罪深さを、身を以て理解する

"ことば"を「忘れる」とはつまり、"内側"を「忘れる」ということです。
"生きる目的"を「忘れる」ということです。──これはすなわち、魂 へ の 背 信 行 為 に ほ か な ら な い 。だから、わたしは何度も、何度も、何度も言っています。

「「「自分の"こころ"に嘘 を つ い て は い け な い 。」」」

いま、あなたが幸せを噛み締めているからこそ、こころを大切にするという行為を始めたからこそ。

いままで自分がどれだけ自分のこころを痛めつけてきたのか、
自分自身に対していかにひどいことをしてきたのか、
どれほど自分のこころを殺し続けてきたのか、

きちんと向き合わなければなりません。


この、"自分のこころに嘘をついてはいけない"ということを論じるとき、

「別にわたしは、自分の性別に違和感を感じていたりはしないし……。」

と、相手がこれを性自認の問答であると捉えて返されることがあります。わたしが「中性」を掲げている人間であることが、あるいは影響しているのでしょう。しかしながら、わたしはこの"ことば"を、そうした意味で言っているのではありません。わたしが本当に言いたいこと、伝えたいことは、そんなことじゃない

究極的には、

「生 き た い」 と い う 意 味 合 い で 「死 に た い」 な ど と は 決 し て 言 わ な い こ と で あ り 、「生 き た い」 を 「生 き た い」 ま ま に 、「「「生 き た い」」」と 言 え る こ と 。

それが、"自分のこころに嘘をつかない"という"ことば"の、"意味"です。

だから。

幸せになりたいのであれば、「幸せになりたい」と言いなさい。
死にたくないのであれば、「死にたくない」と言いなさい。
──生きたいのであれば、「「「生きたい」」」と言いなさい。

そしてこれを口にしようとしたとき、は た と 気 づ く 。

「幸せになりたい」という"ことば"は、"自分は幸せになるに値する人間だ"という確信──"資源"がなければ、絶 対 に 言 う こ と が で き な い
「死にたくない」「生きたい」という"ことば"は、"自分は生きるに値する人間だ"という確信──"資源"がなければ、絶 対 に 言 う こ と が で き な い

だから、だから、だから。
わ た し は 数 万 字 を か け て 、ず っ と 言 い 続 け て い ま す 。
まずは自分自身と向き合うべきだ。自分で、自分を救うべきだ
"わたし""内側"と向き合い、ほんの欠片でもいい、"内的な価値"を見出し、"資源"を育むこと。ここから始めないことには、何 も 始 ま ら な い


Xさん。
どうか、どうか、今日のこの"ことば"を、忘 れ な い で く だ さ い 。

わたしが願っていることは、それだけです。

-解- 《救い》とは何か?

前編/後編一連の記事で扱ってきたこの命題について、わたしはここで結論を記します。



"救い"とは何か?

──それはつまり、情緒的な質量を伴う、”構造の不可逆な転換”です。



日常に置き換えると、自転車に乗れるようになること、と捉えれば理解が早い。

※画像をクリック or タップで拡大
※いらすとやフリー素材を使用⇒ https://www.irasutoya.com/2017/11/blog-post_59.html
※いらすとやフリー素材を使用⇒ https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_96.html

自転車に乗れないときは、自転車に"乗る"ということ自体の感覚がまず"わからない"。そもそも、想 像 す ら で き な い 。だって、乗 れ な いのだから。

しかしながら、いま、自転車に乗れるようになった"わたし"からすればどうか。今度は逆に、自転車に"乗れない"という感覚がもはや"わからない"
"どうやって"乗れるようになったのか、"いつから"乗れるようになったのか、わ か ら な い"乗 れ る よ う に な っ て し ま う"と、途端にわ か ら な く な る 。だから、「ねぇ、自転車ってどうやったら乗れるようになるの?」と子どもに問われたとき、大人は答えに窮する。説明できないから。結果、「とにかくペダルを漕げ!」などという方法論に終始する。

これと全く同じことが、こころにも起こっている
わたしはそう考えます。

できる ── できない
である ── ではない

全ては"状態"の話であり、
両者の間には途方もない断絶が存在している。できない側から⇒できる側へ必死で助けを求めても、何も解決しない。できる側から⇒できない側へ懇切丁寧にアドバイスしようとも、一向に改善が見られない。この悲劇的な惨状を説明するためには、"構造的な問題"と呼ぶほかないでしょう。

だから、"考 え る"必要があります。
いまあなたが"できない"状態にあり、そのことに苦しみ解決を切に望んでいるのだとすれば、為すべきことはたった1つです。

"考 え ま し ょ う 。"

現状を"構造的"に分析し、致命的な欠陥に気づいたのだとしたら、その"構造的欠陥"を解消するための"論理"を構築する。
──何よりもまずは、これに立ち向かおうと決意する。次に、その方法を考え、仮説に基づいて行動/実践する。その結果を受けて、必要であれば改善を施す。これを繰り返していく中で、いま生じている弊害を、少しずつ、少しずつ、確実に小さくしていく。問題の規模がどれほど巨大であろうと、複雑であろうと、この"論理"はいつだって絶対に揺らがない

そして、"論理"を構築し得るただ1つのものが──"ことば"です。

できる ── できない。
この間の絶望的な断絶を、"ことば"が、"ことば"だけが架け渡し、不可逆の転換を起こすことができる

※画像をクリック or タップで拡大
※いらすとやフリー素材を使用⇒ https://www.irasutoya.com/2017/11/blog-post_59.html
※いらすとやフリー素材を使用⇒ https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_96.html

"確信"に触れた"ことば"が"論理"を磨く。
"論理"とは、つまり"対象と対象を結びつける働き"のことであり、"論理的思考力"とは、結びつけたその一歩先を指し示す光、すなわち未来を切り拓く力にほかならない。──我々"人間"には、それだけのものが既に備わっている

そして、この"論理"を幾重にも編み込むことで生まれたそれを、"わたし"は"哲学"と呼ぶ。

"哲学"は美しい──そこには"論理"があるから。
"ことば"を喋るために"ことば"で考えるために、そして何よりも"ことば"で"生 き る た め に"、哲学は必要である。わたしはそう信じます。
このように考えていくと、「人生哲学」という"ことば"の"成り立ち"までもが、わたしたちには構造的に理解できるようになってはきませんか?





Xさん、最後に、お願いがあります。

未来への意志を、いまこそ示す。


次回、最後のヒアリングまでに、レポートを書いてきてください。

《レポートに組み込んでいただきたい内容》
・1回目のヒアリング~今日までで感じたこと、考えたこと、学んだこと、自分自身に起こった変化

この点は必ず記載してください。
また、レポートの最終部分の内容も指定します。

《レポートの最終部分》
未来をテーマとしてください。
これから自分はどうなりたいのか。どう生きていきたいのか。未来への展望と意志を述べてレポートの結びとしてください。また、その中においては下記3つの質問に対するあなたなりの答えを必ず明記してください。
1.Xさんにとって、「音楽」とは何ですか?
2.Xさんにとって、「生きること」とはどういうことですか?
3.Xさんの「生きる意味」とは、果たして何ですか?

以上の内容、指定内容に沿って書いてください。読むのを楽しみにしています。




『──わかりました!せっかくだから原稿用紙を使って、もうびっっっしり書いてきますね!』

『……待ってますね!』──そう言ってくれたあなたの声を、わたしは絶対に忘れません。


最後、Xさんから定期演奏会へのありがたいご招待をいただき、その日は解散としました。Xさんとは長い間ご一緒していましたが、その演奏をお聴きしたことはいままで一度もなく、変革を遂げたいま、Xさんがどのような音楽を紡いでくれるのかわたしはとても楽しみにしていました。

いつもXさんに必ずお聞きしていた質問については、全てを締めくくる本当の最後となる次回のヒアリング後半時にお聞きするのが筋であると考え、これを保留しました。

──しかしながら、あのときわたしがきちんと言えていれば、結果は違っていたのではないだろうかと、いまでも考えてしまう自分がいます。

結末




簡潔に結末を記します。

Xさんに書いていただいたレポートを、わたしが読むことはできませんでした。さらに言えば、そもそもXさんがレポートを書いてくれたのかさえ、わたしはいまだにわかっていません。

最後のレポート課題を出したあの日から数週間が経った後、Xさんは三度音信不通となりました。この音信不通について、いままでと明確に違っていたのは、XさんがTwitterアカウント自体を削除していたことです。電話番号も着信拒否されてしまっていました。わたしは、Xさんへの連絡手段の全てを失ってしまいました。

Xさんに何があったのか、一体何を思ってこのような行動をとったのか、それはXさんにしかわからないことであるため、ここではただ時系列に沿って事実を列挙します。

ヒアリング前半の終了から数日後、わたしたちは改めてお電話をご一緒することとなっていました。しかしながら、電話の予定時刻、Xさんから今日は電話ができなくなった、とDMが届きます。

『ごめんなさい、いまは電話できる気持ちじゃなくて……。何があったか、またあとでちゃんと説明します。』

翌日からXさんパラメーターの反応が異常をきたし、😢マークが数日に渡って続きました。途中で一度👎️マークに持ち直しましたが、再び😢マークに下降、その後ここから上がることはありませんでした。電話を断られている以上、わたしにはパラメーターを送り続けることしか為す術がなく、いま自分にできるこの責務だけは最後まで全うすべきと考え、決まり通りこれを毎日送り続けました。この期間、Xさんからパラメーターに反応が返ってこなかった日はなく、これについては本当に感謝しています。

最後、パラメーターが最低値😂を示し、直後、Xさんに対してDMを送信できなくなっている事態からアカウントが削除されたことを知りました。すぐに電話をかけましたが、こちらも既に着信拒否をされた後でした。

1つ、不幸中の幸いであったのは、Xさんの定期演奏会には伺うことができたことでしょう。

アカウント削除の2日前が、定期演奏会当日でした。
パラメーターの反応は変わらず😢でしたが、この日はXさんから短文ではありましたが『演奏会、頑張ります。』とDMを頂けました。

ホールで初めて聴いたXさんの音色は、音楽は、とても美しかった。
全てが終わってしまう前にこのような機会が得られたこと、そして最後にXさんのお顔を見ることができたことは、本当に幸いでした。

全演目終了後、演奏会メンバーと共に横並びで観客席に向かって一礼したXさんは、笑っているような、泣いているような表情で。隔たれた観客席からはその想いの全てを伺い知ることなどできなくて、歯がゆく思いました。
──でも、距離が離れているからこそ、顔を合わせて話さないで済むからこそ、Xさんはこれを最後の機会として選んだのかもしれない、と思います。



以上が、事の顛末となります。
Xさんがどのような意図でこのような行動を取ったのか、その真意はもはやわかりません。しかしながら、振り返ってみれば一連の流れは段階を経て進み、Xさんも迷い、躊躇い、苦しみながら決断を下したのだろうと思います。であれば、わたしはこれを尊重したいと考えています。友人Aを経由すれば連絡を取ること自体は可能ではありますが、これを行うつもりはありません。

本件、Xさんのアカウント削除については、これ以上わたしから語ることは何もありません。



これから。



しばらくの間、立ち直れませんでした。

一時期は食べ物も喉を通らず、自己を喪失してしまったような深い悲しみと慢性的な鈍い痛みを覚え、こころが虚脱状態に陥りました。Xさんの存在は、わたしの中でそれほどまでに大きくなっていました。



Xさんは元気だろうか、あれから揺り戻しはきていないだろうか、いまでも音楽を愛せているだろうか。……果たして、わたしはあなたの役に立てたのだろうか。資するものを渡せていただろうか。振り返り、ときに後悔も挟みながら、ずっと、ずっと、ずっと、考え続けました。

──人間とこころについて、その在り方と関係について、いままで以上に考えるようになりました。

思えば、最初、これはわたしだけの物語でした。
カミングアウトをきっかけとした、わたしとわたしの"こころ"の物語。
でも、活動の中で本当にいろいろな人たちと出逢って、そして何よりもXさんと出逢って、一緒に笑って、泣いて、手を取り合って、気がつけば、この物語が大きく広がっていたことに気がつきました。
だから、わたしはその答えがどうしても知りたくて。本を買って、論文を読んで、考えて、悩んで、書いて、書いて、書いて、ずっと、ずっと、ずっと、必死に"ことば"を探していました。



数ヶ月後、わたしはとある論文と出逢いました。
これを読みながら、わたしは胸にこみ上げてくるものを覚えました。こころを大きく震わせながら、その全てを読みました。下記に提示/引用します。

ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察
※上記をクリック or タップでPDFファイルが開きます

──実存主義アプローチ。

クリルの実存主義アプローチは、実存主義思想から導き出された「Disillusionment」・「Freedom of choice」・「Meaning in suffering」・「Necessity of dialogue」・「Commitment」の5つを援助概念としている。

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

「Disillusionment」とは、クライエントの成長を妨げている様々な要因、特にクライエントが思い込んでしまっている錯覚から目覚め、クライエント本来の姿に戻ることである。

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

わたしがXさんに対して為したことは、これだったのではないかと思いました。

「Freedom of choice」とは、クライエントが錯覚から目覚めて本来の姿に戻るためには、クライエントの自ら変わりたいと望む主体性に基づき、クライエント自身が援助を望み選ぶという選択をすることが大切である。選択とは行為へ向かうものであり、クライエントは変化への力をもっていると援助者が信じることは、クライエントに肯定的な気持ちを与えるものとなる。

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

「Meaning in suffering」とは、クライエントの抱えている問題や苦悩がクライエントの成長にとって意味あるものと肯定する立場から援助を行うことである。それは、クライエントが自ら抱える問題や困難な境遇を、嘆いたり排除したりするよりも、クライエントの潜在的な力を引き出し促進することにつながるのである。

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

「Necessity of dialogue」とは、人はその人自身の内部だけからは成長せず、人は環境との応答関係の中で成長し、自分自身を構築していくが、その基礎となるのが、人と人との対話である

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

「Commitment」とは、クライエントが自分自身の中に現れてきている独自のライフスタイルを認識し、さらに、積極的に自らに関わることを、援助者は望んでいる。クライエントが自分自身の独自のライフスタイルを自覚し尊いとすることは、クライエントが自らを憐れに思い無気力となることから方向転換することになる。クライエントが自らの独自のライフスタイルに積極的に関わると同時に、援助者もクライエントを肯定的に受け止め積極的に関わるのである。

植村由美子(2005).ソーシャルワークにおける実存主義アプローチの考察

ここで再び、わたしは"問い"に立ち返りました。



──なぜ、この人は"わたし"と同じことを言っているのだろう?



この"ことば"が言いたいことが、"わたし"には明確にわかる
何を伝えたいのかが、その全てが、"わたし""内側"で、美しく洗礼的に響きました

いままで、
わたしだけが考えている/わたしだけが信じている/決して誰にも理解してもらえないと思っていた"論理"に、「実存主義アプローチ」という"名前がついている"ことを知りました。
この瞬間、わたしは、認められた気がしました。赦された気がしました。「わたし、頑張ってこれたんだな。」そう、初めて思うことができました。
気がついたら、両頬を涙が伝っていました。

本当は、本当は、……すごく怖かった。
あの冬の日、Xさんに全てを打ち明けられた日はショックだったし、これに立ち向かおうと決めた日も、本当はとても恐ろしかった。果たしてこれはわたしに務まることなのか、わたしが示した方針は正しいと言えるのか、何 も  わ か ら な か っ た
Xさんのパラメーターの反応が低い値を示す度に、音信不通になる度に、例えようもなく不安になった。胸が張り裂けるような思いを何度も、何度も味わった。それでも、震える脚で立ち上がって、絶望の中でこそ"わたし"を強烈に自覚し、自らを鼓舞し、その"可能性"をただ真っ直ぐに信じて、わたしは"わたし"の背中を、あなたに示し続けた。



人間の知を体系化し整理したもの──、それこそが"学問"であると理解しました。

"学問"は、感情を伴う
喜び。感動。挫折。修めようとする彼は、彼女は、それを感じていたはずです。様々な事実や事象を観察し、分析し、仮説を打ち立てたうえで検証し、その結果に一喜一憂しながら、やがては自分自身の学術分野を確立していった。

すなわち、"学ぶ"という行為は非常に人間的な活動である、とわたしは結論づけます。そしてそれ故に、この活動に従事する"人間"は、その道中で数多の「共感」「共鳴」に心打たれることとなります。
生命の価値。その喜びと痛みの歴史と、それでもなお揺るがない"人間"という存在の美しさを、"学問"は"わたし"に示す。ときに数百年に及ぶ時間の連続性の中で脈々と受け継がれてきた"それ"を、"わたし"は畏れ、祝福する。

だから──、  勉強したい。

わたしは、心の底からそう思いました。


「メンタルケア心理士®」。
わたしはいま、この資格取得を目指して勉強しています。

メンタルケア心理士®とは、心理カウンセラーとして活躍することを想定した、日本学術会議協力学術研究団体 メンタルケア学術学会が認定する公的資格です。

心理系の資格といえば、民間資格の中では「臨床心理士」が最も認知度の高い資格として存在しています。しかしながら、受験資格を得るためにはわたしの場合はいまから指定大学院を修了する必要があり、いまの活動と並行しながらこれを行うことは現実的ではないと判断しました。ハードルを下げつつ、かつ実用的な心理系の資格を探した結果、「メンタルケア心理士®」という本資格を知りました。

メンタルケア心理士®を目指す学習では、心の状態と身体疾患の関わりや心の不調を予防する知識、ストレスへの適切な対処法を学ぶことができます。また資格を取得することで、相談者へ心理学に基づいたカウセリングを行うことができるようになり、精神解剖生理学と精神医科学の基礎知識があることを証明できます。

上述の専門知識と実践スキルを身につけることができるほか、「メンタルケア心理士®」は厚生労働省が発行する「ジョブ・カード」に記載できる資格です。一定の職業能力を証明できる資格であると公的にも認められている資格だと捉えることができます。以上の理由から、わたしは「メンタルケア心理士®」を取得することに決めました。

資格取得においては、まずは通信講座にて教育課程を受講後、検定試験を受験します。これに合格後、資格登録を行うことでメンタルケア心理士®として認定されることとなります。

この一連の流れに則り、「メンタルケア心理士®」の認定をわたしは必ず成し遂げ、ゆくゆくは自分自身の今後の活動に活かします。



いまここで歩みを止めてしまったら、諦めてしまったら、全てが終わると思いました。180日間に渡って積み重ねてきた、見出してきた"価値"を、失うことになると思いました。──そのとき、それは"い や だ"と思いました。

止めたくない。諦めたくない。この"連続性"を、絶やしたくない。
わたしは、わたしの持ち得る全ての"資源"を以て、この"いのち"と"ことば"を紡いでいきたい。そのためなら、何 で も し よ うと決めました。

だから、これを固く決意したあの日から今日に至るまで、わたしが涙を流したことはもう一度もありません。

わたしは、知りたい

彼らが自分のことを、愛される資格がない、生きる値打ちがないと思っているのには、その確信の根拠となる原体験がある
彼らにとってもっとも大切な存在が、彼らをあからさまに見捨てたか、可愛がっているふりをしていたとしても、本気では愛してくれなかったのだ。

岡田尊司(2019).『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』株式会社光文社 pp.19.

自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことなどない人が、口先の理屈で言う言葉に思える。
一番大切な人にさえ、自分を大切にしてもらえなかった人が、どうやって自分を大切に思えるのか

岡田尊司(2019).『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』株式会社光文社 pp.20.

「私は誰なのか」ということをちゃんと深いレベルでわかっている人のまなざしのもとで育つ経験がなければ,自分自身を認識する方法は最初からゆがめられてしまいます

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社 pp.85.

もし主たる養育者や愛着対象となる人(両親,パートナー,のちには自分の子どもたち)から攻撃を受けたなら,愛着と防御の反応が同時に引き起こされるので,適応のシステムは崩壊します。2つの反応が,親密な関係性の中で交互に入れ替わることになるからです。人生の出発地点がこのようなものであれば,人格の統合的な発達は不可能になります

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社 pp.88.

本当の意味での「責任」とは,「問題を受け入れて改善しようとすること」です。もし一人ではできないなら,周囲がそう願っているとおりに,助けを求めるべきです。そのことがどんなに難しいとしても,他者の援助を受け入れる必要があります。

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社 pp.147.

なぜ、みんな、揃いも揃って同じことを言うのか

弱っているとき、安心感の拠り所を求めようとする愛着システムが活性化しやすい。元気なときなら人に頼らないような人でも、弱っているとき、どん底のときには、人を身近に感じていたいと思う。心のうちまで打ち明けられるかどうかはともかく、メールをしたり、電話をかけたり、安心できる人に会いたいと思う。普段は人に相談などしない人でも、誰かに話を聞いてほしいとか、意見を聞きたいと思う
そうなる理由は、不安が高まった状況に対して「愛着システム」のスイッチが入り、愛着行動が増加することによる。そして愛着行動は、出会いを引き寄せたり、人との関係を親密にしたり、その人が今必要とする助けをもたらす

岡田尊司(2016).『愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる』株式会社光文社 pp.309.

(1)接していて、怖さや危険な感じがなく、安心できる。
(2)穏やかで、気分や態度がいつも一定している。
(3)目線が対等で、見下したような態度やおもねりすぎる態度をとらない。
(4)優しく親切だが、必要なときには、言いづらいことも言う。
(5)相手の意思や気持ちを尊重し、決めつけや押し付けがない。

これらは、言うまでもなく、安全基地になるための条件でもある。魅力的で、惹きつけられる人ではあるものの、こうした条件から外れる場合には、その人自身が不安定な愛着を抱えた、演技性や自己愛性といったパーソナリティの持ち主かもしれない。

岡田尊司(2016).『愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる』株式会社光文社
 pp.273.

自分で「責任」を引き受けることなしに,自己制御の力の回復はありません

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社
 pp.151.

しかしながら,誰もがみんな,時には危害を加えてしまうことがあります誰かを傷つけずに生きることは不可能なのです。

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社
 pp.176.

この"ことば"驚くべき一致は、連帯は、一体"何を"表しているのか。

いつの日か決意し,ゴールに向けて,常にこの決意を維持し続ける必要があります。「これまで以上に変わらなければならない」と硬く決意します。その決意は,たとえ揺れてしまうことがあっても維持します。あるいは「人生の手綱を握らなければならない」と決意し,たとえこれから進む道にどのような困難があったとしても,しっかりと手綱を握ります

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社
 pp.198.

しかし、同時に、人は大きな可塑性や成長する力をもっている。抱えている課題や制約と、そこから自由になり可能性を広げていこうとする力との戦いが、その人の生き様、人生が描く軌跡だともいえる。

岡田尊司(2016).『愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる』株式会社光文社
 pp.268.

この新しいポジションに立つと,他者との真の出会いが可能になります。自分をありのままに示し,目の前にいる現実の人が見えます。この出会いは,逃してはならない,人としての重要な経験のひとつです。

アナベル・ゴンザレス(2020).『複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本』(大河原美以訳)株式会社日本評論社
 pp.247.

わたしは、知 り た い

わたしは、"わたし"がたった一度、"此処"に生まれてきた意味を知りたい。


「きれいごとだ」と、嗤いたければ嗤えばいい。
絵空事だと、馬鹿にしたければ馬鹿にすればいい。でも、わたしは、知 っ て い る 。それがきれいごとであったとしても、聞いているこちらが赤面してしまうほど青臭い理想論であったとしても、ひ と た び そ れ を 事 実 と し て し ま え ば、も は や、誰 も そ れ を 嗤 え な く な る馬 鹿 に で き な く な る否 定 で き な く な る

わたしは、そうやって生きてきた。
──これがわかっているのであれば、為すべきことはただ1つです。



目的を、果たす。

硬く決意し、歩く。道中で何が起ころうと、いかなる困難に見舞われようとも、絶対に初心を忘 れ ず、何度でも、何度でも打開策を講じ、ときにどのような手段を用いようとも、必ず、最期に、これを為す。

顔を上げる。前を、遠くを、未来を、見据える。
そして、前進する。進む。進む。進み続ける。それしか、道はない。

──わたしは、否定しない
"人間"として生きるためには、決して感情に呑まれてはならない。
まずは、事実をフラットに直視する。構造的に分析し、"思考"する。結果として我々は、たとえそれが多大な痛みを伴う苛烈な経験であったとしても、その中から確かな"糧"を得ることができる。だから、この180日間を、わたしは否定しない。ここで、例えばXさんに対して反動的な恨みや憤りをぶつけようとするのはひとえに愚か者のする行為であって、わたしの理想とする"わたし"の姿ではない。だから、否定してはならない。自 分 の "こ こ ろ" に 、嘘 を つ い て は な ら な い 。わたしは、この痛みと、そして喜びの全てを、絶対に、"忘 れ な い" 。自身の精神力を以て、これを内的な"資源"と変える。

──わたしは、そして、肯定する
わたしは、前編/後編一連のこのnote記事執筆作業を、どれほどの時間がかかろうとも完遂し、いまここで新しい"夢"を誇りと掲げ、これをわたしにもたらしてくれたのは、Xさん、あ な た な の だ表明する
次に、必ずこの夢を叶え、今後の自身の活動に活かすことで──、文字通りわ た し の 人 生 そ の も の を 賭 け て 、Xさん、あ な た の 全 て を 肯 定 す る 。これが、今後も続くXさんの人生に、その未来に、花を手向ける行為となると、わたしは信 じ る

あなたの存在には、それだけの価値があった


人の"価値"とは、一体どこに宿るのだろうかと、わたしはいつも考える。
社会的価値?資本的価値?肉体的価値?性的価値?
──否。絶 対 に 違 う 。真に問われるべきは、その人の在り方における"内面的価値"でしょう。属性も、性別も、肉体も、その全てを取り払ったうえでなお、あなたは如何にして輝きを示すのかということが人生では試されている。この試練に打ち克てば、即ち、"生きる"という行為自体が"表現"へと昇華する。

わたしはもう、今後"性別"のことだけを発信するつもりはないし、そのような浅い次元で自身の活動を終わらせることなど、到底耐えられない。
この世界に居るのは、"わたし"だけではない。"生きづらさ"とは、"性別"だけではない。だから、わたしはもっともっと、視野を広く持ちたい。誰かのことを細やかに、繊細に思いやれる人で在りたい。
わたしは、"あなた"を、"人間"を、"存在"を、──何よりもその"尊厳"を、美しく描写できる人間になりたい。

そのためなら、ど ん な こ と で も す る 

傲慢だったと、思う。
でも、これは、この180日間は、わたしにしか為し得なかった行為であると、わたしはいまここで胸を張ることができる。



「メンタルケア心理士®」の資格勉強が、今後、具体的に何に繋がるのかはまだわからない。でも、確実に、"何か"に繋がるとわたしは確信する。

いつだってそうだった。

過去、数年前のあの日、わたしが「東京に行こう」と決意し行動していなかったら、いまのわたしはない。

「自分のこころに噓をつかない」と決意し行動し続けた6年間がなかったら、いまの柏野美沙の活動はない。

わたしが、一歩を踏み出さなかったら、あ な た と は 出 逢 え な か っ た 

だから。だから。だから。

それがたとえどんなに小さなことであったとしても、
わ た し は 、あ な た は 、い ま 行 動 を 起 こ さ な け れ ば な ら な い

自分自身でそれを為すと"決意した"のであれば、誓ったのであれば、そ れ を 果 た す ま で は 絶 対 に 諦 め る こ と な ど あ っ て は な ら な い 
これこそが、"決意"ということばが持つ"本当の意味"であり、その道中でたとえどのような困難が降りかかろうと、悲劇的な状況に見舞われようとも、何度でも自身の足で立ち上がり、たった1つの目的のためだけに、わたしは、自らの生命を力の限り行使する

世界は、残酷です。
傷を負って血を流しながら、臓物を垂らしながら、這ってでも前に進まなければならないときだってある。わたしも一度地獄を見ているから、よくわかる。

でも。
それでも。
だとしても、自らの人生に、「イエス」と言う。

わたしは、変わっていない。
活動を始めた3年前から、何1つとして変わっていない。

本気なんです。
本気で、わたしのこれからの全てを込めてあなたに届けたい。届けなければならない。
口先だけなら誰だって言えます。何だって言えます。だからこの本気をあなたに伝えるためには"形"にして見せるしかないでしょう?
そのためなら何だってするよ。
メールやLINEの何千通何万通にだって目を通す。自分史年表だって完成させる。この記事を書くにあたって分析と執筆に丸1日かかっていても、絶対にわたしの言葉であなたに届ける。
わたしの弱いところも格好悪いところも全部全部見せて、さらけ出して、それでもわたしが何かを為す姿をあなたに見せるよ。見せ続けるよ。
もう一度言います。
本気なんです。
本当に何も怖くない。どんな苦労や困難だって厭わない。
だって人生賭けてるから。

引用:2019/10/15公開記事
女性の格好で暮らしてきた6年間の全てを「自分史年表」にまとめました。

3年前のあの日に発した"ことば"が、何の矛盾も齟齬もなく"いま"にピタリと当てはまるのは、"わたし"が変わっていないから。

──わ た し は 、変 わ っ て い な い

だからどうか、どうか、これを読んでいるあなたには、わたしの姿を最期まで見ていてほしい。

夢。
これを、あなたに説明するためにも、わたしはこの一連の記事を書かなければならなかった。きっと、わたしがこれを書かずにいきなり「メンタルケア心理士®になります!」と言っても、あなたを当惑させるだけで終わっていただろうし、わたしについてきてくださる方も少なくなっていただろうと思う。わたしが新しい指針を示すとき、それを受け取る側の心情は"なぜ?"となるのが自然であって、であれば表現者は独りよがりにならず、その背景と経緯を説明し、自らの"ことば"を保証する責務を負うべきであると理解しています。


いつも、柏野美沙を応援してくださり本当にありがとうございます。
あなたのおかげで、わたしはいまでもこうして活動を続けることができています。前編/後編、この計8万字超を以て、心からの感謝を表明します。

いつかは、活動の中であなたともお会いしたく思っています。
ここで営業を挟みこむ不作法をお許しいただけるのであれば、下記2つのnote記事にもぜひ目を通していただき、ご検討くださいませ。

資格勉強の経過/進捗については、定期的にTwitterで公開します。
また、資格取得が叶った暁には、改めてご報告をさせてください。



──2022年、5月。
活動3周年目を迎え、3年目の歩みを始めたいまこのタイミングで、未来への展望を示すこの記事を公開できたことに、わたしはこれ以上ない喜びを感じています。

今までのわたしにありがとう。
今まで逢ってくれた全ての人に、ありがとう。

叶うならば、──もう会えなくなってしまったあなたにも──、いつかまた、人生のどこかで出逢えたらいいな。




p.s. つい先日、友人Aからわたしのもとへ、Xさんの近況報告が届きました。Xさんはいまでは見違えたかのように、日々を、音楽を、楽しんでいるよ、とのことでした。「一体何をしてくれたの?」と聞いてきたAには、まだ詳細を伝えてはいません。書き上げたこの記事を、あとでAにも送るつもりです。

そして、Xさん、本当によかった。
──どうか、いつまでもお元気で。

柏野美沙

★もっと読みたい!という方はこちらもどうぞ★

・ー・ー・ー 無料記事編 ー・ー・ー・

・ー・ー・ー 有料記事編 ー・ー・ー・

※記事前半約8,000字は無料で公開中です

─◇──◇──◇──◇──◇──◇─

Twitter、Instagramもやっています。よろしければ、ぜひフォローをお願いします。投稿頻度はTwitterの方が高いです。


Twitter:@misa_feminine
Instagram:misa_feminine


あなたからのご支援がいつも本当に励みとなっています。ありがとうございます。 頂いたご支援金は、活動資金として使わせていただきます。